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阿津賀志山防塁に切れ目発見

2008/10/17日福島民報によると

国見の阿津賀志山防塁の出入り口を発見

国見の阿津賀志山防塁の出入り口を発見

防塁の出入り口とみられる切れ目が見つかった発掘現場=国見町森山

 国見町教育委員会が9月から行っていた同町の「阿津賀志山防塁」の発掘調査で、防塁に出入り口とみられる切れ目が11日までに見つかった。切れ目が見つかった付近は平安から鎌倉時代に移る時代の転換点となった「奥州合戦」の主戦場と考えられ、同町教委では歴史的価値が高い発見としている。

 切れ目が発見されたのは国見町森山字西国見の発掘現場。幅は約4メートルで、人が3、4人通れる広さ。奥州合戦当時の様子を記録した鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」では、出入り口を「大木戸」と呼び、周辺で激しい戦いを繰り広げたことを示す記述がある。防塁の草刈りや外堀の調査を行い、同町教委は切れ目が初めから出入り口として作られたことを証明できたという。

 防塁は1189(文治5)年の奥州合戦を前に、藤原軍が源頼朝軍の北進を防ぐために築いた防御陣地。

 調査結果は11日に郡山市で開幕した全国生涯学習フェスティバル(まなびピアふくしま2008)の国見町ブースで発表されている。同町教委では16日に詳しい調査結果を報道関係者を対象に行い、18日には一般向けの説明会を開催する予定。



発掘現地の説明看板

発掘現地より南を望む



上阿津賀志山防塁全体図
下トレンチ調査図

現地説明会資料より

調査の結果、茶色の部分が三重の防塁。緑の部分が溝、溝の内側に土塁を有していることも分かった。このような堀と土塁に囲まれた一角は防御的性格を有し、木戸口を阿津賀志山防塁と共有することから、防塁に伴う城館と考えることが出来ます。



右端が阿津賀志山、防塁は中腹から左下に向かって約4km伸びている


阿津賀志山中腹の防塁

阿武隈川沿いの防塁


阿津賀志山防塁

  奥州を制圧しようと、源頼朝は全国のご家人を動員し、仙道、東海、北陸の三方面から25万の軍勢平泉に向かいます。それらを迎え撃つべく、藤原氏は阿津賀志山(あつかしやま)に二重の空堀と三重の土塁からなる、長さ約4kmに及ぶ防塁(ぼうるい)を築いたのです。1189年8月8日早朝。鎌倉軍と奥州軍が激突。戦いの火ぶたが切られました。世に言う「奥州合戦」です。両者一歩も退かぬ戦いぶりでしたが、3日後阿津賀志楯(あつかしたて)は陥落してしまいます。やがて頼朝の軍勢は平泉を占領。藤原泰衡は家臣に謀殺(ぼうさつ)され、奥州藤原氏は滅亡します。

 なぜこの地かというと、東山道が福島盆地の平野部を過ぎ、今日の宮城県白石市、さらに平泉方面へ北上するには阿津賀志山(あつかしやま)の東麓(とうろく)から、貝田の地狭部と県境の峠を通らなければなりませんでした。現在も国道4号線、東北自動車道、東北本線などが重なり合う、交通の要衝になっています。両側から山地が迫るこの地狭部は、攻めるに難く守りやすい地形から、東山道を遮る形で、大木戸や防塁を設置して、鎌倉軍の北上を阻止する、防御地点として、選ばれたと思われます。

 阿津賀志山(あつかしやま)の中腹から平野部に向かって阿武隈川の岸にいたるまで、約4kmにわたって、延々と築かれた空堀と土塁とからなる防御施設が阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)です。大部分が内と外二条の堀と土塁とからなっていますが一条の所もあります。防塁(ぼうるい)をつくるに要した労力は延べ25万人、6ヶ月以上もかかったと推定されています。この防塁をこの地では二重堀(ふたえぼり)と呼んでおります。