ブルーベリー園は藤原国衡の終焉の地だった
藤原国衡 阿津賀志山から馬取田まで
▲阿津賀志山「大木戸」考察ノート
古代安倍一族の古墳だろうか
東北随一の数を誇る円墳郡
幻の霊感寺を関場鏡から探る
ギャラリー
はし休めにどうぞ
韮神山の地名を考える
・2007年トピックス
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2000年宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬字新開
の地に約2万uのラベンダー畑を作った
20年来続けてきた町おこしの一環である
と思っていた・・・
しかしそれは失敗の連続
また振り出しに戻ってしまった
この20年間でいったい何が残ったのだろうか
地域のために何を成して来たのだろうか
気が付いたら地域の歴史、特に考古学(畑の下)を見ていた
近畿天皇家がこの地を支配する以前は、どんな社会だったのだろうか
宮城県の「宮城」の地名はどうしてついたのだろうか
現代の中央資本が地域を支配する構図とダブらせながら
格差社会が蔓延する現代
気になって気になって仕方が無い自分がいた
何も無いと思っていた田んぼや畑、里山に
数え切れない古代の先輩たちの生活の跡が残っていた
その生活は今の自分より豊かだったのかもしれない
文化が進化して個人が豊かになるとは限らないのだろう
古代の先輩たちが、現代人に何を諭そうとしているのだろうか
宮城県は陸奥国国府多賀城の置かれた東北の中心地である。
しかし以前から気になって仕方の無い事があった。それは宮城県の「宮城」の地名。
宮城=キュウジョウ、大和朝廷側からするとありえない地名である。
大和朝廷が宮城の地を支配した後についた地名とする説には賛同しがたい気がする。
もともとこの地域に誕生した大きな勢力(文化)がすでにあったのではないかと思うようになってきた。
東北の華やかな縄文時代の遺跡から考えると、獣のごとき蝦夷のすむ所とは考えにくい。 |
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宮城県南部、柴田郡は県内でも3本の指に入るくらいの
発達した文化を古代に有した地域であったことを近年知った
今まで何も知らなかった自分が恥ずかしい思いだ
村田町東部の山間部で発掘される大量の質の良い石鏃
東北随一の数を誇る上の山古墳群
県内3番目の大きさの愛宕山前方後円墳
あるいは古代安倍一族との強い関係も
伝承や続日本記に読み取れる
藤原秀衡との関係で知られる関場地区の幻の霊感寺
興味は尽きない
質の良い石鏃の産出地の近辺で始まった富や権力、情報の蓄積
が縄文時代から始まり、弥生時代へと引き継がれたと考えている
考古学者とは違う考えかもしれない
地形的条件とあいまって豊かな古墳時代へ向かう事が読み取れる
周辺には前方後円墳や円墳のなんと多いことか
このようの地域は県内でもそう多くないのである
古代から「蝦夷の地」と差別されてきた
我が宮城県を含めた東北の地は
近年発掘調査が進むにつれ
優れた文化と生活に満ちていた事がわかり始めてきた
津軽外三郡誌に記載されているような東北王朝
が古代に成立していてもおかしくないと思うようになってきた
和田家資料1に私の好きな一文がある
宮城の片田舎に住む身としてはとても勇気付けられた
孝季の最高のはなむけけの言葉と受け取った
「(前略)我が丑寅の日之本国は、正に太古より一系に通じて今にある天皇の系譜にもありまずや。現に丑寅日之本の諸藩にあるべく大名とて、戦国運気に乗じたるその出自ぞ、のぶせの輩なり。
三十万年前より丑寅日之本国に住む民、石を神と、石を刃物とし、石を刻みて古証を子孫に遣し、侵統に黙示せること千年を過却して、未だ陽光を古代乍らに仰げざる化外の蝦夷なり。然るにや、心転倒すべからず。
移世に待たば、子孫に必ずや至るべく陽光の輝きを思うべし。
寛政七年正月 秋田 孝季」
地域に何の資料も無い安倍一族の話は大変興味がある
現に隣の伊具郡と亘理郡に安倍一族の歴史が色濃く残っている
藤原清衡の父藤原経清は亘理郡だし伯父さん平永衡は伊具郡である
ともに安部貞任の兄弟阿里加一之前と奈加一之前を妻にしている
地元豪族との政略結婚かもしれないが
この地域が安倍一族の大きな力が及んでいたことは疑いない
宮城県柴田郡大河原町、今から20年ほど前に「町おこし」と称して始めたラベンダーのある街づくりとラベンダー農園。
挫折を繰り返して2006年にすべてから手を引いてしまった。
気がついたらラベンダー農園は縄文時代〜平安時代にかけての宮城県指定の遺跡であったことに気づいていた自分がいた。
驚いたことに隣の減反田に作ったブルーベリー園は、藤原国衡の終焉の地であることが分かった。 |
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近隣の柴田郡は古墳の密集地帯
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南から千塚山古墳、嶋館古墳
千塚地区より北へ3.5kmの関場地区には愛宕山古墳の宮城県内3番目の大きさを初め、西に隣接する形で薬師堂古墳。
関場地区より北西1km薄木地区には方領権現古墳。
薄木地区より西へ1.5km、蔵王町と村田町の町境の峰沿いにある愛宕神社古墳、峰ぞい北東300mにある古峯神社古墳、さらに峰を北東へ350mにある夕向原古墳
さらに関場地区より東に1.8kmにある小塚古墳。薄木地区より北東2kmにある針生古墳などがあります。
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上野山古墳群は東北一の規模
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宮城県柴田町及び村田町、両町にまたがる上野山丘陵(標高207m)東西約1.5km、南北約1.4kmの広範囲の地内に、ある規則的に分布している。その数は調査済みで314基、未発見の古墳も数あるかも知れない。
古墳の数は現存するものとしては東北最大規模の高塚古墳群と見られる。
築造年代については、古墳時代末期、7世紀後半から8世紀初頭にかけてと考えられている。
古代柴田郡の創設に関わった豪族の一大サンクチャリーではなかったろうか。
はたしてその豪族とはいったいどの氏族なのだろうか。
続日本紀には安倍氏系、大友氏系、毛野氏系の記述が当地には見える。 |
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