韮神山地名考察
韮神山(94m 宮城県村田町)
作成年代は不明だが三十三観音が描かれているので、弘化3年以降に描かれたものと思う。
この頃の韮神橋は下流500mに移設後と読み取れる。頂上には「矢留稲荷」が祭られていたようだ。
北方の後方山頂に「照井の墓」の記述あり。 |
撮影された時代は不明だが、韮神山が削り取られる前の写真。
裾野に旧街道が見える。右船岡、左村田町。
山中央部付近が少し高くなっており、ここを往古は「韮神坂」と呼んでいたのかもしれない。 |
韮神山は韮が自生していたから付いた名だろうか
韮神山の地名由来は、村田町史によると「この山の上にニラが自生し、住民がそれを山の神の使いとして崇めたので、韮神山となった。」とあるが、なぜかすっきりしない。もっと違ういわれがあったのではないだろうかと、考えるようになってきた。
この地は、東北最大の数(314基)を誇る横穴石室の円墳のある上野山古墳群の最南端部に位置してあること。また奇岩怪岩の山で、縄文時代には信仰の対象になったであろうと思われること。また古代から現代に至るまで、軍事・交通の要衝であった事などから考えると、「ニラが自生していたから韮神山」とする説には、簡単に納得する事が出来ない。
韮神山直下にあった東山道(東街道)「憚りの関」
平安時代、藤原実方は陸奥に流配(?一説には栄転とも言われている)となり、その折詠んだ歌の歌碑がある。
「やすらはでおもい立ちにしみちのくに ありけるものを憚りの関」
心配しないで陸奥に旅立ったものだが、やはり越えることが憚られる関ではある、といった意味であろうか。
この憚りの関は清少納言の枕草子の『関は』で 『ただごえの関 はばかりの関 たとしへなくこそおぼゆれ』とあり大変古くから都の文化人には知られていたようだ。又後拾遺和歌集 藤原通俊による序では『みずからのつたなき言の葉もたびたびのおおせそむきがたくして、はばかりの関のはばかりながらところどころのせたるところあり』とある。
国語辞典によると 『1憚り・・・・はばかること、恐れ慎むこと、遠慮、便所 2憚りさま・・・・助力を感謝する言葉、ご苦労様、嫌味を込めてお気の毒さま 3憚りながら・・・・恐れ多いが、云いにくいが、生意気な言い分だが 4憚る・・・・恐れ慎む、遠慮する、幅をきかす、嫌がる』とある。
韮神山案内板 |
韮神山直下の古碑群 |
藤原実方の歌碑(1658年建立) |
芭蕉句碑
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芭蕉は奥の細道でここを通ったことだろう。
芭蕉に心酔していた大河原町の俳人が、弘化3年(1846年) この句碑を建てたとされている。
「鶯の笠おとしたる椿かな」
ここで詠まれた句ではなく、伊賀上野市で詠まれたものという。 |
山頂にある三十三観音像
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三十三観音建立の謂れは
韮神山三十三観音像が建立された弘化2年は、天明・天保に次ぐ大凶作に見舞われ、且つ外国船の来船も始まった頃である。
時の人々は、当処に三十三観音を祀り、天下泰平・万民和楽を祈った。
とあります。
観音像は夕日照らされ静かに微笑んでいました。 |
弘化3年と読める祠
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新しい観音像
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新しい観音像が山頂に向かって建立されている。 |
奥州街道「韮神橋」跡か?
大河原町史によると「元禄12年の仙台藩御領分絵図によると、荒川に架かる韮神橋(長さ二十間・横三間)を渡ると、長さ五十八間の韮神坂があった。この韮神坂は韮神山の裾を通る坂道で、昔は峨ヶとして聳える韮神山の真下を頂点として荒川沿いに東進する崖道が照井と立石(船迫方面)の間にあったのである。
現在はこの坂道を堀下げ、勾配をなくしてしまったので、坂というほどのものではない・・・・」
また平泉雑記によると
柴田郡沼邊村ニ韮神山トテ、道ニサシ出タル岩山アリ、昔ヨリ此山下往還ノ海道ナリシカ、網村公其岩ノサシ出テ危ヲ見タマヒテ、道ヲ廻シ今ハ遙左ノ方ヲ通ルナリ、小川ノ此橋アリ、照井橋ト云、頼朝公奥入ノ時、照井此橋ニテ戦ヒ死セリトモ、此橋昔ヨリ山下ニ有シカ道ヲ廻セシ時、遙川ノ下流二掛けテ往来ス、韮上山ノ西北二照井カ石墳アリ、其屍ヲ埋タル處ナリ、又橋ノ北田ノ中ニ小池アリ、首洗水云、照井カ家臣主人ノ首ヲ泥中ニ隠セシ處ナリ
とある
現在の韮神橋は、荒川下流約500mの所にあります。
韮神橋移動の理由は、奥州街道憚りの関付近が落石などの難所のため、そこを避けて大河原宿に行ける様に、韮神橋の位置を変更したと言うことです。
国道4号線バイパス開通で、一部のみ残った旧道。
往古の街道がしのばれる。 |
旧道下方に見える荒川、其処に残る江戸時代と思われる橋の痕跡。 |
直径約40cm、高さ約1.2m程の丸太の杭6本が確認できる。
杭間隔は右から2.4m・2.1m |
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橋の痕跡のあるところと旧道が交わる所にあった「瓦片」
時代はそんなに古くは無く、古くとも江戸時代までではないかと思う。
上の丘から滑り落ちてきたのだろう。瓦葺のお堂でもあったのだろうか。 |
丸太の近く川底から現れた「カズガイA」
長さ23cm・巾1.8cm・厚さ0.8〜1.2cm・つめの長さ8cm
打ち出し加工と見受けられる |
「カスガイA」の拡大画像
表面がでこぼこしており、打ち出し加工と思われる
江戸時代のカスガイだろうか |
2mほど離れた丸太に寄り添うように8割土中に埋まっていた「カスガイB」
長さ23cm・巾2.5cm・厚さ1〜1.6cm・つめ長6cm |
丸太付近で見つけた陶器片
時代は素人にて不明 |
河岸はがけ状になっているが、
橋の付け根と思われる所に見ら |
れる、まるで小石を敷き詰めた道の様な暖斜面。
緩やかに上りながら東に向かっているのが観察できる
あるいはここが橋から続く旧道なのであろうか
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新羅(シンラ)三郎義光と柴田郡
新羅を音読みにすると(シンラ)、訓読みにすると(ニイラ、ニラ)と読めます。特別には(シラギ)です。
柴田郡の中に川崎町支倉地区があります。町史によると 「現在支倉の字名がついているが、古くは長谷倉とか馳倉(はせくら)と呼んだ。それ以前は新羅であったという。永承六年(1051)安倍頼時が平泉によって反乱を起こして勢力を張ったので、朝廷は源頼義、義家父子に征討を命じた。前九年の役である。その折、源氏の武将新羅三郎義光が新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いてきた。二十人は槻木の入間田に、十七人をこの地に住まわせた。支倉に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精錬して武器と農具を作って戦役の用に供した。それ以来新羅の郷と呼ぶようになった。それを証明するように、ここ沼の橇
(そり)をはじめ、この森一帯に金屑が見られ、何時の頃からかこの森の奥に供養碑も建てられている。遠く故郷を望んで没した新羅の人々の冥福を祈ってやまない。」とあります。
新羅郷の看板と支倉の中心地
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新羅郷の説明看板
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東(無刀関)へ向かう新羅道
新羅郷供養碑はこの奥にある
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寶田大聖不動明王
それにしても不思議な形の社である。和田家資料で見たような |
新羅郷供養碑入り口
奥まった所に供養碑はあった。
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新羅郷供養碑
山の奥にひっそりとたたずんでいた。旧街道だったのだろうか。 |
柴田郡槻木入間田地区は、伝承通り「製鉄遺跡」の中心地だった。
入間田地区を中心に半径約3km区域内に、製鉄遺跡と考えられる遺跡が6箇所(寺遺跡・鍛冶屋坂遺跡・銅谷遺跡・小和清水遺跡・馬瀬遺跡・鍛冶内遺跡)も存在した。これも伝承の通り新羅三郎義光と、一緒に来たとされる新羅の技術人の痕跡なのだろうか。
析石神社(さくぜき)
入間田地区となりの葉坂地区 |
重厚で見るから古そうなたたずまいである
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ご神体はなんと、裏山のざっくりと割れた大岩?縄文由来の霊場かと思われる。 |
入間田地区遠景 |
入間田地区中心部 |
前九年の役で韮神山で戦闘があった記録は無いが、隣の伊具郡(平永衡)、亘理郡(藤原経清)は安倍方として戦っている、柴田郡も安倍のお膝元であったと考えるのが妥当だろう。当然韮神山の地でも激しい戦闘があったと想像できる。
新羅三郎は支倉、入間田の地を支配したということは、柴田郡の軍事の要衝地である韮神山を支配したとしてもおかしくない。
支配地の中心地、霊場の直中に、新羅神(ニラ神)を祭ったと考えることは出来ないだろうか。
新羅三郎義光は(韮崎市)武田の祖だった。
韮崎市(ニラサキ)のHPによると
11世紀頃、甲斐源氏の祖義光・義清・清光と、一子相伝されていた甲斐源氏の統領は、清光の子で韮崎を拠点にしていた武田信義に引き継がれ、鎌倉・室町期を通じて武田氏が甲斐守護職として実権を握っていました。しかし名君武田信玄公没後は、その子勝頼が長篠の戦いに敗れるなどして、武田の歴史は終わりました。
地名由来では
韮崎という地名は、「八ヶ岳の火砕流の両側が、釜無川と塩川に削られ、細長く鋭く尖った韮の葉のようになっており、その先(崎)にこの地域があること」に由来するといわれています。とあるが
しかし新羅三郎義光の子・源義清が常陸国武田郷(現茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて韮崎市で武田氏を名乗ったのは、全くの偶然なのだろうか、なぞは深まる。 |