藤原国衡終焉の地はブルーベリー農園


藤原国衡 阿津賀志山から馬取田まで


古代安倍一族の古墳かもしれない


東北最大の数を誇る円墳郡


幻の霊感寺を関場鏡から探る


ギャラリー
はし休めにどうぞ


韮神山の地名を考える

上野山古墳

JR船岡駅より西方1.5km(徒歩20分) 船迫中学校南西となりー寺後古墳入り口

宮城県柴田町及び村田町、両町にまたがる上野山丘陵(標高207m)東西約1.5km、南北約1.4kmの広範囲の地内に、ある規則的に分布している。その数は調査済みで314基、未発見の古墳も数あるかも知れない。

古墳の数は現存するものとしては東北最大規模の高塚古墳群と見られる。

築造年代については、古墳時代末期、7世紀後半から8世紀初頭にかけてと考えられている。
古代柴田郡の創設に関わった豪族の一大サンクチャリーではなかったろうか。


ではどのような氏族の古墳であったかと言うことです。
続日本紀には以下のような記述があります。
769年 柴田郡の人 外正六位上 丈部嶋足には安倍の柴田臣を賜姓す。
769年 柴田郡の人 外従八位下 大伴部福麻呂には大伴の柴田臣を賜姓す。
799年 柴田郡の人 外少初位下 大伴部人根等に大伴柴田臣を賜姓す。
840年 柴田郡権大領丈部豊主に安倍陸奥臣を賜姓す。
841年 柴田郡権大領外従六位下勲七等 安倍陸奥臣豊主に外従五位下を借授す。
869年 陸奥国柴田郡権大領外正八位上 安倍陸奥臣永名に外従五位下を借授す。


ここから伺えることは安倍氏一族大伴氏一族が古墳主の可能性が高いと言うことです。
また毛野氏一族の可能性もあるかもしれません。


丘陵北端の最高緯度にある「羽山神社」、南端の「韮神山」(立石)も何らかの祭祀が縄文時代から引き継がれたのかもしれない
 上野山(うえのやま)は神之山(かみのやま)、韮神山(にらがみやま)は新羅神山(にらかみやま)とも読み取れる。また羽山神社は丘陵最高峰の大きな岩の上に鎮座している。


 上野山古墳群の散策は、その殆どが藪に覆われている。地図と磁石を持っていても中々目的の古墳にたどり着けない。古代人が先祖のお墓をお祭りすために通ったであろう、古い山道のかすかな痕跡を探しながら、勘と根気が者を言う。

 やっと探し当てた遺跡の中には無残にも「盗掘」されたものもあります。いつの時代に盗掘されたものか分かりませんが、なんと悲しいことか!まかりなりにも地域の先輩たちの「お墓」でぞ、手を合わせ供養の心で散策しましょう。

宮城県の遺跡地図はこちらから






寺後支郡

JR船岡駅より西方1.5km(徒歩30分) 船迫中学校南西となりー寺後古墳入り口
北緯38度4分12秒,東経140度45分43秒〜北緯38度4分20秒,東経140度45分34秒

標高28mの山麗から北西に向かって丘陵の中腹(標高100m)までほぼ直線的に分布している。
写真では丘中腹の最右端に位置しています。

A支郡(43基)
古墳全体の中では比較的管理の行き届いた古墳です。
上野山古墳を初めて散策される方はお勧めのコース。

古墳は円形の盛り上がりがあり(直径5〜10m)、石室の石が露出しているケースもあります。
地表面を良く観察すると見つける事が出来ます。
A支群1号墳発掘調査図はこちらから

B支郡(7基)
A郡と違ってところどころ道が無くなり藪こぎしなければなりません。
丘中腹の舗装道に出たところがB郡の最終地点です。

全体に緩やかな丘陵ですがB支郡までをすべてを観察すると結構足に来るかもしれません


立石支郡(14基)

北緯38度3分56秒,東経140度45分9秒〜北緯38度4分9秒,東経140度45分11秒

入山口は上野山頂にある太陽の村駐車場に車を止め、南端から山道に入ります。
案内標識が無いので地図とコンパスで捜すこと約30分、杉林の中に2箇所に固まりながらあります。
杉林の中は他のブッシュが無いので比較的探しやすいと思います。

もう一つのルートは長窪山C群の真ん中あたりに高圧線を管理するための山道があります。
これを東に向かってひたすら登り、頂上の尾根いったいが古墳群です。約20分ぐらいでしょうか。

東より立石支群を見る。
南北に渡る峰上に古墳がある。



日当たり山支群(合計121基)


上野山古群墳最大の数の古墳がここに見える。
しかしその殆どは道無き道を探さなければならないので相当な覚悟が必要です。

一つ目のルートは柴田町西船迫保育所から西に上野山に入るルート。
細い道ですので十分注意して運転しましょう。不動堂の近くの少し広くなった路上に駐車。

不動堂に登り左奥に山道が南にあり、高圧線鉄塔を目指します。
この高圧線鉄塔の南に別の高圧線鉄塔が見えます。その下が日当り山A古墳群です。

中央に見える山が日当り山、古墳群は中腹の広範囲に分布しています。


A支郡(13基)
北緯38度4分6秒,東経140度45分22秒

目指す高圧線鉄塔が分かれば、その近くにあるので比較的発見しやすいと思います。
高圧線の建設で一部破壊されたかもしれません


B支郡(4基)
北緯38度4分6秒,東経140度45分21秒

A支郡から南に下る山道を10mほど歩くと、道と隣接するように右手に1基見えます。
そのほかの古墳は、この古墳の東下、藪の中にあります。


C支郡(27基)
北緯38度4分9秒,東経140度45分23秒〜北緯38度4分12秒,東経140度45分20秒

本来はC支群に通じる道があったと思いますが、今は無いのでかなりハードな行程になると思います。
A支群の西最端墳から藪を掻き分けながら、西を目指しながら登ります。
うまくいけばC支群の西端の古墳を見つける事が出来るでしょう。

石室の石が露出している墳墓多いと思います。


D支郡(11基)
北緯38度4分13秒,東経140度45分23秒〜北緯38度4分15秒,東経140度45分25秒

C支群を北へ北へ辿って行けば、ほぼつながっているので比較的簡単に探すことが出来るでしょう。
急斜面がここだけ穏やかな斜面になっています。


E支郡(42基)
北緯38度4分8秒,東経140度45分20秒〜北緯38度4分12秒,東経140度45分18秒

C支群を西へ西へ移動するとたどり着けると思います。小さな谷らしき窪みを越えてすぐです。
大きな墳石がごろごろしています。中には天井石があるような古墳も見受けられます。


F支郡(15基)
北緯38度4分11秒,東経140度45分16秒〜北緯38度4分13秒,東経140度45分15秒

E支群を西へ移動すると、これも簡単に見つかると思います。
小さな谷らしき窪みを越えるとすぐに見つかるでしょう。


G支郡(8基)
北緯38度4分13秒,東経140度45分16秒〜 北緯38度4分15秒,東経140度45分15秒

E支群を北に移動すると昔の山道?らしき道跡がかすかに見えます。
ささの中で少し見付けにくいですが一基見つかると、他の古墳も見つかるでしょう。
中には明らかに盗掘されたような後があります。残念で仕方ありません。


長窪山支郡(合計64基)

A支群は残念ながら国道4号線バイパス工事で、発掘調査後に無くなりました。

長窪山古墳はかなり広範囲に分布していて、一くくりにするのはどうかなと思います。
長窪山E支群は鹿野山支群に近いし、B支群やD支群も別のグループのような気がします。



B支郡(2基)
北緯38度3分55秒,東経140度44分44秒

2基の古墳があることになっているのですが、今回は残念ながら1基の確認しか出来ませんでした。

長窪山C支群の中心部の車道から西の山道に入ります。
この道は高圧線鉄塔の管理道だと思います。一つ谷を越え杉林の中を左へ左へ15分ほど道なりに進むと、高圧線の鉄塔が見えてきます。

鉄塔の脇を左へ道なきところを約15分ぐらい進むと円墳らしき墳が見えます。


C支郡(38基)
北緯38度3分54秒,東経140度45分3秒〜北緯38度4分1秒,東経140度45分2秒

長窪山支群では最大の集積地です。
韮神山と山の上の間に細い生活道があります。この道を北に上ります。

左に粗末な野球練習場があり、その手前の少し広い道側に車を停めます。

東側一帯が古墳群です。
高圧線鉄塔管理道を中心に左右に広がっています。

一番手前のがけ状のところは、石室の一部が露出しているのではないでしょうか。


D支郡(5基)
北緯38度4分4秒,東経140度44分54秒〜北緯38度4分6秒,東経140度44分55秒

北側奥に3件の民家があります。民家の手前の道を西に向かい、鉄塔のある小高い丘に登ります。
頂上の少し手前、石のごつごつした所、ここから南に並んであります。



E支郡(16基)
北緯38度4分10秒,東経140度45分7秒〜北緯38度4分14秒,東経140度45分7秒

3件の民家から北に伸びる車が通ったであろう山道があります。(今は難しい)
15分ほど登ると右手に上野山古墳群という遺跡標識が見えます。ここから東に入ります。

15分ほど登ると高圧線の鉄塔に着きます。鉄塔の西隣が下の写真にある口の空いた古墳です。
実に立派な横穴式円墳である事が分かります。調査結果は不明とのことでした。

鉄塔右側ブッシュを掻き分けて進むとまとまって分布する古墳群があります。


鹿野山支郡(合計65基)

鹿野山支群もまた広範囲に分布しています。

A支群の西端には王壇塚(方墳)があります。しかし残念なことに盗掘された痕跡がありました。
古墳遺跡は地域の先輩方のお墓であるのになんとも残念でなりません。

王壇塚(方墳)の真北、谷を挟んだ台地に鹿野山遺跡(縄文〜平安時代)があります。
かつてここから布目瓦が発掘されたとのこと、現在は不明だそうです。



A支郡(47基)

北緯38度4分14秒,東経140度44分50秒〜北緯38度4分18秒,東経140度45分6秒

鹿野山E支群最上部付近の旧車道からブッシュを西に入った杉林の中。

南東を向いた斜面で規則的に並んだ古墳が見られます。
写真上左の2枚は王壇塚、見た目は大きな円墳のように見えますが、墳立ち上がりは方形である事が確認できます。

円墳の並び方から推測するに、王壇塚と密な関係にあったような気がします。


B支郡(6基)
北緯38度4分16秒,東経140度45分10秒〜北緯38度4分17秒,東経140度45分11秒

鹿野山A支群東端の古墳より東の旧車道に出、5分ほど登ると大きなヘアピンカーブになります。
そのカーブの南のブッシュの中にあります。

今まで何度かブッシュ刈りをしましたが、とても追いつきません。


C支郡(11基)
北緯38度4分24秒,東経140度44分59秒〜北緯38度4分27秒,東経140度45分5秒

鹿野山A支群最北部古墳から北側、大きな谷を一つ越えた南向き斜面にあります。
古い道の痕跡をたどりながら歩くこと20分、木を伐採して放置した所と雑木林の残っている境にあります。今は確認するには困難な所です。


D支郡(1基)
北緯38度4分27秒,東経140度45分11秒

上野山古墳の最高標高地点にある古墳です。
この古墳も残念ながら無残に盗掘されていました。地域住民としてなんと悲しいことか、返す返すも残念でなりません。

遺跡調査では1基となっていますが、東側下方杉林の中に不鮮明ですが、もう1基在るのではないかと思います。