ブルーベリー園は藤原国ひらの終焉の地だった


藤原国衡 阿津賀志山から馬取田まで


古代安倍一族の古墳だろうか

東北随一の数を誇る円墳郡


韮神山の地名を考える
幻の無畏山霊感寺を探望
ー「関場鏡」を参照して幻の無畏山霊感寺を探す旅に出ましょうー


龍泉院所蔵「霊感寺絵図」−昭和17年3月作成と思われる
上の絵が左、下の絵が右の二曲一双の絵図
(北東の峰崎地区上空を視点にしたように思われる)


村田町史(通史)によると「藤原秀衡の時代、関場は高木郷といわれ、現在の龍泉院からから愛宕山一帯が霊感寺であり、この辺一帯に36坊(関場鏡には24坊)の霊感寺が建てられたという。
 その規模と壮麗さは、平泉に次ぐといわれ、この世の極楽の再現とも称された。」と書かれている。
現在はその場所がはっきりしていません。
 霊感寺は、平安時代の清和天皇の時代、慈覚大師が東北巡錫に際してこの地に錫をとどめ、霊感寺を開いたといわれています。
 霊感寺は、約400年の間高い信仰を集め、文化の向上に尽くしたといわれていますが、1189年文治の役で鎌倉軍との戦いで滅ぼされといわれています。


また霊感寺梵鐘の拓本(東京国立博物館所蔵)が残っており

   奥州柴田郡高木郷
   無畏山霊感寺大鐘
   住持比丘得秀
   檀那沙弥真木
   応安甲寅卯月日


とある。

この梵鐘の由来は
 高木郷の真木というものが、沼地より堀出した観音像の霊感により、難病が全快したので、仏恩報謝のため本尊観世音を安置して霊感寺を再興したときのものとされている。

関場地区案内図




関場地区遠景ー東より

関場村ハ往古高城郷ト云、後二関場村ト名ノリ、徳川時代ノ改革ニテ村名ヲ改メテ、新村ノ名ヲケタル者ト見ヘタリ、是レハ寛永年後ナルベシ、当村二今、大川ト云フアリ、則、之、関場川ナリ、寛永ノ頃迄ハ、往古、水流ノ路ト見ユ、古川土手ト云ツテ、古土手ノミアリケルガ延宝六年伊達家二於テ、田畑開墾ノ為、新川、新堀、新堤杯修理有テ、今ノ大川ヲ以テ水流トナス、次二新堀、新堰杯多ク此頃ノ普請ナリ、沼辺村ニモ新川、新堰杯普請二相成、岩渕二新堰ヲ設ク、古語ニモ一徳アレバ失有ノ諺ニテ、新川、新堰普請ヨリ、年々歳々水損多ク困難二及。是レハ岩渕堰ノ為ノ逆流ナルベシ、盛田川落合ニハ水防ノタメ大水門ヲ設ケテ水害ヲ防キ、又大堰、小堰、木戸堰、雲南堰杯ノ修年々、国主ヨリ御手入有テ、近村ヨリ人夫年々召遣二相成、依之、小村二似合サル堰数アリトテ諸人、諺二堰場トハ云習セリ。(関場鏡より)



新吉「観音像」を沼地より掘り出す



新吉が観音像を掘り出したとされる沼地浮島。

全体が湿地帯なのにご覧のようにこの一角だけ
樹木が繁茂している。しかもさも浮いているかのように時々移動するという。

またこの地だけ高山植物が群生してるという調査結果があり、なんとも不思議な所である。

現在観音像は龍泉寺に安置されているとの事です。




現在の観音堂。地元有志の普請との事。
 説モ時哉、一百八拾五年ヲ経テ、人皇百代
後円融帝ノ御宇、足利将軍義満公ノ代二当リテ、当村二新吉ト云フ俗アリ、常二観世音ヲ信仰シ、称名常二怠ラズ念ジケルカ、一且病二染リテ身二癬疽ヲ発シ昼夜苦痛難堪。身ノ苦シサニ呼々我、観世音ヲ信スル事年久シ大悲ノ誓願二漏ルカ宿世ノ因縁カ。
如是ノ重病ヲ引受醤療治スルニ効ナシ、心念不空過能滅諸有苦ノ誓願モ虚ナル哉ト或ハ恨、或ハ、我信心ノ不足ナル哉ト思案反側卜心安カラズ疎卜疎ト睡眠ケルニ夢幻トナリ、一人ノ異人蛾眉織月ノ粧ヘナルカ、右ノ御手二楊柳ノ枝ヲ携へ忽然トシテ顕レ、告テ日、我汝常々二信スル所ノ観世音ナリ此ノ荒田ノ中二埋マル事年久シ、是レヨリ西二当ツテ古松粛森トシテ岩山ヨリ清水涌出、瀧トナル有、此瀧二至リテ柳ノ枝ヲ折、瀧水ヲ酒水トナシ癬疽ニソソグベシ、是レ松下三点ノ妙術ナリト告ゲ給フ。
新吉夢覚シテ奇異ノ思ヲナシ、直チニ教ノ如ク山二至リテ見レハ届二曲リタル播松ハ般若即空ノ風二吟ジ湧タル瀧水ハ三有業性ノ垢ノ酒グ教ノ如ク、柳ノ枝折リテ瀧水ヲ癬疽ニソソゲバ不思議ナル哉、今迄堪難ク苦痛発熱忽チニ去リ不目平癒シヌ。是レヨリ新吉一心二荒田ノ中二至リテ、彼方、此方ト見廻ルニ兼葭蒼々トシテ池水ノ中央二光影ノ映スルアリ、怪敷思へ、人夫ヲ以探シケルニ果シテ観世音ノ霊像、僚然トシテ現出、年久ク泥土ノ内二埋リ給フト錐モ、木佛ノ朽破シ不給事、是レ壱ツノ不思議ナリ。
依之此ノ池ニテ見付ケタル故二霊像ノ出給フ処ヲ見付卜名付ケタリ。全字二見付屋敷ト云フハ是レナリ、今二至テ此荒田ハ草木蒼々トシテ、露結ンテ霜トナルノミナリ。
今二荒田ノ中二樹木、松杉螂燭等繁茂セリ、是レ名所也。
靱説、是レヨリ新吉佛恩報謝ノタメ大檀那トナ
リ、出家得導シテ名ヲ真季ト改メ、依之一村挙テ未曽有ノ思ヲナシ清キ地ヲ撰、殿宇ヲ建立シテ本尊観世音ヲ奉安置、目々二参詣人成。山リ、夫レヨリ真季ハ諸郡郷勧請ヲ乞テ為報恩一、大鐘、甲乙ヲ鋳テ観音薩唾ノ霊感朽チサル事ヲ顕シ、再度滅寺天台宗壱寺再興有テ、高城郷無畏霊感寺真季沙弥得秀ト改ム。(関場鏡より)


和田地区、鎌倉地区は源頼朝軍の陣地跡


上は和田地区、下は鎌倉地区


当村二、和田屋敷、鎌倉屋敷ト云有辰巳二当テ沼辺村二韮神山ト云所アリ、古戦場ノ地ナリ、頼
朝公泰衡追討ノ節、鎌倉勢、霊感寺ヲ取囲ミタル時、発向ノ地ナリ、和田ノ義盛ノ軍勢屯シタル所ヲ、今、字和田ト名付、鎌倉勢ノ陳取場ヲ、今、字鎌倉ト云、今ハ皆畑地トナリ(関場鏡より)



和田の北隣は塔ヶ崎

塔ヶ崎ハ和田屋敷ノ後ナリ、今ハ名ノミ残レリ、批塔ヶ崎ヲ文字ヲ誤リテ、今戸ヶ崎ト書クナリ。(関場鏡より)

低い峰伝いの旧道に沿うような丘の上にある。
古墓碑郡のようであった。


霊感寺のあった時代はここに塔かお堂があったのかもしれない。


大室は霊感寺の奥の院

農家ニ大室ト云所有、是レ、古、霊感寺繁昌ノ時寺地ナリ、施無畏山霊感寺ノ奥ノ院ナリ、月山ニ大室アル如シ。年代深遠ニシテ、其ノ細部有無トナル今ハ寺坂ノ名ノミ残リテ大室ト云事ナラン。(関場鏡より)


奥の院推定地の大室地区

霊感寺から続く昔の参道ではないだろうか


韮神山と千塚山は文治の役の激戦地

沼辺村韮神山ハ古戦場ノ地ナリ。泰衡没落時、此地二柵ヲ構へ、鎌倉勢ヲ拒キ防戦ノ地ナリ、迫村迫郷二砦ヲ築キ血戦ノ地ナリ、同山下二、錦戸太郎国衡、照井太郎高直戦死ノ墳墓アリ。高直文治五年此役二於テ戦死。其ノ西方二同人ノ首洗池アリ、又、山陰二千人沢ト云所アリ、泰衡ノ軍勢伏兵ノ地ナリ、山上二八神平卜云所二、戦死ノ塚多クアリ、同村西南二当ツテ、是又、戦死ノ大塚
アリ、此所ヲ千塚ト云、今ハ字アリテ千塚屋敷ト云。(関場鏡より)


文治の役の激戦地とされる韮神山
裾野に旧街道を抱える天然の要害と見える。

韮神山西隣の山の上
ここに照井太郎の首塚があるという

山の上「延命地蔵尊」の上り口にあるお地蔵さん
表情豊でとても立派な石地蔵さんである。

延命地蔵尊の左隣にちょこんとある、自然石を2段重ねて塚のような石、照井太郎の首塚と地元では言われている。

関場鏡に「山上二八神平卜云所二、戦死ノ塚多クアリ」とあるが、これは上野山古墳のことを指しているのではないだろうか。

また延命地蔵尊は大きな円墳の上に建立してのではないかと思える。


千塚山

村田町の遺跡説明看板


無畏山霊感寺はここにあった

坊舎弐拾四坊有リト伝ヘアリ、青山楼経蔵ノ趾アリ、今、経壇ト云フ、学頭田アリ。今、字二学頭ト云フアリ、鐘ツキ田アリ、字鎌倉ニアリ。大室、宝龍、塔ヶ崎杯卜云フ大寺ノ古趾今二至リテ字ノ残レリ。秀衡時代迄ハ大伽藍ノ地ト見へタリ。
八拾弐代後鳥羽帝文治五年、頼朝公泰衡追討ノ節、奥州ノ寺僧泰衡二一味シ、沼辺村韮神山戦ノ時、霊感寺ヲ以テ兵糧場トナセリ、韮神山戦破レ、大敗然ルニ鎌倉勢破竹之勢ヲ以、当村霊感寺
二籠リ居タル兵卒及壱千余ノ寺僧トモヲ取囲ミ防戦スト離モ無勢ニシテ終二減亡二及ビケル痛哉。
美ヲ尽シタル殿堂伽藍モ一時二灰燈トナリ惜哉、慈覚大師ノ御作佛ノ正観世音ノ尊像モ畑田ノ中二埋ツテ有、残兵僧侶モ散々二退転ス、佛具ハ勿論、鐘馨共二散乱シテ一宇モ不残焦土ト成リヌ。宝蔵、大室、塔ヶ崎モ名ノミ残リテ後、荒々ノ地トハナり(関場鏡より)

霊感寺ノ旧址ハ高木屋敷ノ中央ノ高岡ナリ、今、民家トハナリケル。(関場鏡より)


関場高木の中心地

関場経壇〜峰崎

関場高木地区、峰伝いにある古墓碑郡

今は鬱蒼とした林の中であるが、昭和36年の航空写真で
当地区を観察すると、経壇周辺は全て畑であった事が分かる。

霊感寺がこの地であったとしても、遺構の発見は
かなり難しいのではないかと思われる。



2006年の冬に平泉町に出向き、霊感寺の何かヒントでもあればと思い学芸院の方と意見交換をして来た。要約すると、このような話(平泉藤原との関係は)結構あちこちにありますとのことだった。

もし素人が調べるのであれば、青磁か白磁の破片でも見つかればより信頼性のある話だと思うとのことでした。

「関場鏡」についてのお問い合わせは村田町歴史みらい館まで