ブルーベリー園は藤原国ひらの終焉の地だった
藤原国衡 阿津賀志山から馬取田まで
東北最大の数を誇る円墳郡
幻に霊感寺を関場鏡から探る
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韮神山の地名を考える |
古墳の散歩道
白石川水系の下流域で最も古くから古墳文化が発達したのは、白石川から北西に入り込んだ村田町盆地南部である。
古代の交通の要所であり、開田すべく湿地帯が広がっていた地域であった。
首長墓と見られる大型の前方後円墳などが同盆地西側丘陵上に築造されている。
南から千塚山古墳(前方後円墳ー主軸長85m)、嶋館古墳(前方後円墳ー主軸長35m)
千塚地区より北へ3.5kmの関場地区には愛宕山古墳(前方後円墳ー主軸90m)の宮城県内3番目の大きさを初め、西に隣接する形で薬師堂古墳(前方後円墳ー主軸長35m)。
関場地区より北西1km薄木地区には方領権現古墳(前方後円墳ー主軸長64m)。
薄木地区より西へ1.5km、蔵王町と村田町の町境の峰沿いにある愛宕神社古墳(前方後円墳ー主軸長約150m〜170m?不明)、峰ぞい北東300mにある古峯神社古墳(前方後円墳ー主軸長40m)、さらに峰を北東へ350mにある夕向原古墳(前方後円墳ー主軸長不明)
さらに関場地区より東に1.8kmにある小塚古墳(前方後円墳ー主軸長不明)。薄木地区より北東2kmにある針生古墳(前方後円墳ー主軸長不明)などがあります。
遺跡案内標識が無いので道に迷いながら、また藪を掻き分けながら遺跡を探してますと、宮城県の遺跡地図には載っていない古墳らしきものも見つかります。しかしそれは素人、それ以上の考察は出来ません。
多くの古墳を観察し不思議に思う事が多々あります。
その一つが「古墳の向き」です。主軸を南に向いているものもあれば東を向いているもの、西を向いていたり、南東、北東を向いているものもあります。
地形の条件に合わせたからそうなったとの意見もありますが、当時の人たちが一番大事な古墳の向きに無頓着だったとは考えられません。重要な意味があったはずです。
たとえば千塚山古墳とすぐ隣の嶋館古墳の向きはおおよそ逆向きです。
もう一つはどのような氏族の古墳であったかと言うことです。
続日本紀には以下のような記述があります。
769年 柴田郡の人 外正六位上 丈部嶋足には安倍の柴田臣を賜姓す。
769年 柴田郡の人 外従八位下 大伴部福麻呂には大伴の柴田臣を賜姓す。
799年 柴田郡の人 外少初位下 大伴部人根等に大伴柴田臣を賜姓す。
840年 柴田郡権大領丈部豊主に安倍陸奥臣を賜姓す。
841年 柴田郡権大領外従六位下勲七等 安倍陸奥臣豊主に外従五位下を借授す。
869年 陸奥国柴田郡権大領外正八位上 安倍陸奥臣永名に外従五位下を借授す。
ここから伺えることは安倍氏一族と大伴氏一族が古墳主の可能性が高いと言うことです。
また毛野氏一族の可能性もあるかもしれません。
古墳遺跡は広範囲にわたるため、車、遺跡地図、磁石、飲み水、軍手、勘と根気と藪を掻き分けるのでそれなりの服装が必要です。是非挑戦してみましょう。
宮城県の遺跡地図はこちらから
宮城県柴田郡村田町関場字愛宕山 関場集会所北西1km・集会所に古墳案内板あり
JR大河原駅北西5.7km・車移動20分 東北道村田IC南東約3.5km・車移動15分 北緯38度5分32秒,東経140度42分56秒 |
関場地区は古くは「高木郷」と呼ばれていたと言うことです。
たかぎ=高柵とも読み取れ弥生以来の地名かもしれません。
北部に「蔵本」の地名があり縄文祭祀遺跡のにおいがする。
しかし「関場鏡」によると、往古官物、税物杯、貢物を収め置たる旧址と見えたりとある。
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古代村田盆地の中心をなすと思われる前方後円墳、向は西が円墳、東が方墳でである。
沼辺盆地に西から東に突き出た関場丘陵の南端最高峰に位置する。
主軸長90mは宮城県内3番目の大きさで白石川系では最大の規模を有し、円筒埴輪、などが確認されている。
村田盆地の首長塚と思われる。
前方が低平な形態ことなどから中期(又は前期後葉)の古墳と推定される。 |
写真は関場丘陵を北から写したものです。
丘陵中央の最高地点が愛宕山古墳です。丘の稜線が古墳の形状になっています。
手前の集落は高木集落です。
高木集落は古代高木郷の中心地域と思われる。
藤原秀衡のときこの地域一帯に無畏山霊感寺があり、36坊(関場鏡には24坊とある)の社寺の規模と壮麗さは平泉に次ぐといわれ、この世の極楽の再現と称されたと言われている。 |
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東の方墳から円墳を見る |
きれいな前方後円墳 |
西の円墳から方墳を見る |
詳細はこちらから
関場地区空撮写真はこちらにあります
古墳南東20mほどの所に神明社の神社がある。
ここをよく観察すると前方後円墳の形状がなんとなく見える。
あるいわここも古墳ではなかっただろうか。
薬師堂古墳
愛宕山古墳北西約10m 徒歩5分・道標なし 北緯38度5分33秒,東経140度42分53秒 |
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愛宕山古墳北西約10mに位置し主軸長35mの前方後円墳、北西から南東を向いている。
愛宕山古墳円墳奥に位置することから倍塚と考えられる。
付近の集落で古くから信仰の厚く、後円に薬師如来を刻んだ石碑を祭っているため、古墳の形状はかなり変形している。
古墳への道は草刈も行き届き分かりやすい快適な山道となっている。
写真は方墳から円墳に向かって写している。 |
蛇口古墳
愛宕山古墳北東隣約5m 徒歩2分・道標なし 北緯38度5分33秒,東経140度42分59秒 |
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愛宕山古墳頂から伸びる丘陵上に有る円墳。
大正時代に畑を開墾した際、蔵本古墳と同じ大きさの石棺が発掘されたと言われている。
現在はまったく不明。 |
蔵本古墳群
愛宕山古墳北500m・尾根下り徒歩20〜30分 途中藪越え・道標なし 北緯38度5分44秒,東経140度43分1秒 |
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愛宕山古墳頂から北に伸びる丘陵上に有る円墳郡。2基の円墳が藪の中に確認できる。
明治時代後期に畑として開墾したとき、巾90cm、高さ60cm、長さ180cmの箱式石棺を発掘したと言われる。同時に土師器片も発掘したと言われているが詳細は不明である。
数件の民家の裏山峰の藪の中。民家の方に断って、裏山に入らしていただくようお願いしたほうが楽かもしれない。
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暗くてかなり見にくい、かすかに円墳と確認できる。いつか直径を計測してみたい。 |
あきらかに円墳だと思うが、確証出来ない円墳状の高まり。 |
坂下古墳
愛宕山古墳北500m・尾根下り(藪越え道に迷い断念) 北側の農道より100m・道標なし 北緯38度5分44秒,東経140度43分1秒 |
遺跡地図には円墳と前方後円墳とあるが、以前はたちとして開墾したためか確認不能。 |
全域ブシュに覆われ全体を見渡せない。
肌の出ている所はとげの引っかき傷無数。 |
発掘調査図はこちらから
経壇
愛宕山古墳北東600m・関場丘陵尾根の生活道・徒歩20分・道標なし 北緯38度5分42秒,東経140度43分15秒 |
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写真中央の杉林が一番盛り上がっている所。
経壇は古墳ではなく霊感寺の社寺の基礎と考えられているが不明。大きな方形の塚状になっている。
元ここに傘松が生えていたが、今は切り取られ何も残っていない。
この辺一帯に霊感寺の中心施設の一部があったのではないかと推測している。
文治の役でこの地では千数百人の僧侶が鎌倉軍と戦い、没したと言われている。 |
はっきりと方形と分かる基壇。
いつの日か計測してみたい。 |
この近辺は比較的平坦地が多く、多くの寺院など建立しててもおかしくない。 |
雲南権現古墳
愛宕山古墳より南東1.5km 平地の田んぼにある・徒歩25分・道標なし、汚れたい遺跡標識有 北緯38度5分19秒,東経140度43分33秒 |
方領権現古墳
宮城県柴田郡村田町薄木字金原・愛宕山古墳より北西1.5km道標なし(車移動約5分)
北緯38度6分8秒,東経140度42分52秒 |
薄木地区の薄はススキのことで、うすぎ=薄柵(城)とも読み取れ、弥生時代由来の地名かもしれません。そうすると弥生時代の環濠遺跡が・・・?どうでしょうか。
例えば、稲柵(いなき)、葛柵(かつらぎ)、水柵(みずき)なども弥生から古墳時代の防衛方法(施設)と考えられています。
「関場鏡」には薄木は古昔は宇敷と書き、日本武尊祭典の前、勅使下向の行在所と見えると記してある。
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写真稜線左側、こんもりしている所が方領権現古墳。
主軸長64mの前方後円墳。右側のなだらかな稜線が金原古墳群。
方領権現古墳にはくびれ部分に張り出しが設けられていて珍しい。古墳の形状から中期の古墳と考えられている。
古墳西50mほどの所に古い墓石郡の高まりがある。円墳か前方後円墳のように見える。 |
後円墳西端に鎮座している石製の祠、中は何もお祭りしていない。 |
後円墳から前方墳を見た所。
写真では不明だがはっきりとした形状が観察できる。 |
前方墳から後円墳を見た所。
張り出し部分は向かって右側のくびれ部分にある。 |
詳細はこちらから
金原古墳群
法領権現古墳より東400m・徒歩15分 道標なし 北緯38度6分11秒,東経140度43分2秒 |
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方権現古墳の方墳東側に寄り添うように円墳らしき高まりが観察できる。
古墳地図に円墳2基と表記されているので、そのうちの1基であると思われる。
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薄木丘陵の最東端峰に位置していて、周りは高い杉林に囲まれている。
円墳の中央西に石造りの祠が鎮座している。
祠の周りや底に通じる山道はきれいに管理してあり、現在でも集落の人々が御祭りしている気配がはっきりと感じられる。
古墳地図では方墳の可能性がリ再度観察してみたい。
東側の北成生集落側から丘を見ると、民家の後ろに小さな赤い鳥居が見える。丘の上の祠と関係があるかもしれないので調べてみたい。 |
上記の古墳の西200mの峰上にある円墳。
ややもすると見過ごしてしまいそうな所だが、良く観察すると古墳であることが分かります。 |
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古墳らしきもの
薄木集会所を右に折れて少し上ると、右手に集落の墓地が見えてくる。
墓地の中を歩いて鉄塔の下を東に道なりに歩くこと10分、中央に古い墓碑郡を抱えた円形の?高まりが見えてくる。
良く観察するとかすかに方墳らしきたまりも観察できる。
宮城県の遺跡地図には古墳の記載はここには無い。
円墳上の高まりにある古墓碑郡、お墓としてきちんと管理している所である。 |
前方墳らしき所から後円墳らしき所を見た。
形はかなり崩れているため、明確でない。 |
愛宕山神社(古墳)
宮城県刈田郡蔵王町平沢字立目場愛宕神社
東北自動車道村田IC南西約2.5km 車で約10分・村田町と蔵王町の峠 北緯38度6分10秒,東経140度41分47秒 |
愛宕山神社古墳、夕向原古墳群は東の村田盆地の古墳群となんらかの関係があるのではないかと考えている。
現代だから町境の峰なのだが、古墳時代は西の蔵王町の平沢地区も東の村田盆地も、同じ生活圏ではないかと思える。
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蔵王町円田(西)から愛宕山神社古墳(稜線の最高地点)を写しています。
蔵王町側のまた縄文〜平安までの遺跡の集積地帯である。
愛宕山神社古墳に関する情報は少ないのだが、
神社建立によって大きく破壊された古墳(前方後円墳)は主軸長が150〜180mと言われている。
これが本当だとすると宮城県内一の大きさとなる可能性のある古墳である。 |
方墳から円墳を見た所。
大きな神社社殿が建っているため正確な前方後円墳と確認しがたい。 |
後円墳から前方墳を見た所
北西を向いている。 |
古峰神社古墳
愛宕山神社古墳より峰伝い北東約270m・徒歩10分
北緯38度6分15秒,東経140度41分54秒
標高165m、丘陵下の水田からの比高約80m、方位N67度E、墳長38m、後円径26m・高3.5m・頂径約10?12m、前方幅約16m・長14m・高2.5m、くびれ幅16m、後前高差-1m。
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主軸長40mの前方後円墳。向きは東。
円墳上に古峰神社の大きな石碑がある。 |
後円墳から前方墳を見た所
形ははっきりとしていてきれいな古墳である。 |
夕向原古墳1号
古峯神社古墳より峰伝い北東約350m・徒歩20分・一部藪越え
北緯38度6分23秒,東経140度42分0秒
標高159m、丘陵下の水田からの比高約80m、方位N170度W、周濠(後円部後端と前方部前端に)、総長64m、墳長56m、後円径約38m・高5.5m・頂径約12m、前方幅約23m・長約20m・高2.5m、くびれ幅約19m、後前高差-1.8m。
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主軸長70mほどもあろうと思う、きれいな形の前方後円墳である。南を向いている。
前方墳から後円墳を見た所。 |
後円墳から前方墳を見た所。
写真では判別つかないが、殆ど傷のついていない古墳に見える。 |
夕向原古墳2号
夕向原古墳1号分より南東100m・藪の中
北緯38度6分20秒,東経140度42分1秒 |
完全に藪の中、古墳らしき高まりが見えるも正確に確認できない。 |
なんとなくこんな感じ、
円墳ではなく細長く見える。 |
針生古墳
宮城県柴田郡村田町村田字針生・村田町役場南西約1km・車移動5分
北緯38度6分33秒,東経140度43分15秒 |
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田んぼの中に堂々と横たわっている古墳(前方後円墳)、主軸長が約100mと言われているが
長年畑として使われてきたので詳しいことは不明。
発掘調査をすればある程度の古墳情報が解明すると思うし運が良ければ石室が残っているかもしれない。
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西円墳から東方墳を写す。
田と畑の境の形は古墳の痕跡を残している。 |
東方墳から西円墳を写す。
後ろに見える森は針生A古墳のある森。 |
針生A古墳
針生古墳より北200m丘の上・徒歩20分・藪の中
北緯38度6分39秒,東経140度43分10秒 |
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丘の右端杉林の一番高い所が針生A古墳。
写真は針生古墳上から西を見て写す。
ここには円墳1基があると遺跡地図に記されているが、写真左端の頂にも円墳らしき高まりが見える。
また右の頂の円墳も方墳らしき高まりが見え、前方後円墳かもしれない。 |
完全に藪化していて写真では判別つかない。
円墳から方墳らしき高まりを見る。 |
方墳らしき高まりから円墳を見る。
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上ヶ沢稲荷古墳
針生古墳より西450m丘の上・徒歩10分
北緯38度6分29秒,東経140度42分54秒 |
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北東より古墳のある丘を見る。
村田盆地に西から舌上に伸びた低い丘の最東端にある。
遺跡地図には円墳となっているが、方墳のような高まりが西に観察できる。 |
円墳北西に石製の祠が祭られている。
現在も管理されているようだ。 |
西方墳らしき高まりから円墳を見る。
今は藪となっている。 |
小塚古墳
宮城県柴田郡村田町沼部字小塚・関場愛宕山古墳より東約2km・車移動5分
北緯38度5分13秒,東経140度44分17秒 |
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田んぼの中に浮いているような位置にある前方後円墳。
長い間畑として使われていたようなので、かなり古墳が壊れている。
主軸長70m前後ではないだろうか。 |
円墳西端に石製祠が祭られている。
円墳部分はある程度形が確認できる。 |
南方墳から円墳を見る。
方墳は殆ど判別不能である。 |
法領権現古墳
宮城県柴田郡村田町沼田字弁天・愛宕山古墳より南西1km・車移動5分
北緯38度5分4秒,東経140度42分25秒 |
古墳入り口の神社の鳥居。
鶏神社、二渡神社とも言われ古街道のにおいがする。 |
比較的大きな円墳と思われるが、円墳の中心部に今は大きな社殿が建っている。
2mほどは古墳を掘削したのではないだろうか。 |
元窪古墳
法領権現古墳より南東800m・車移動5分
北緯38度4分54秒,東経140度43分4秒 |
千塚山古墳
宮城県柴田郡村田町沼辺字千塚・JR大河原駅より北西約2.3km・車移動10分
北緯38度3分59秒,東経140度43分52秒 |
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主軸長85m(近代の測定結果)の前方後円墳、主軸南を向いている。円墳上に木造の祠(浅間神社?)が西はしに鎮座してある。
前方墳が細長く先が撥のようにやや開いている形状から前期の古墳ではないかと言われている。
この地は文治の役のとき韮神山とともに鎌倉軍と壮絶な戦いがあったとされる地である。
その時の藤原方の総大将が照井太郎と言われている。
大河原町新寺の洞秀院に墓があると言う。 |
前方墳から後円墳を見た。
古墳の形状ははっきりと観察できる。 |
後円墳から前方墳を見た
円墳上にある祠は今は祭られていないと地元の方が言っていた |
詳細はこちらから
千塚山古墳ー円墳
千塚山古墳より峰沿い北5m・徒歩5分
北緯38度4分2秒,東経140度43分51秒 |
古墳北10mほどの稜線にある円墳
倍塚ではないかと思われる。 |
前方墳南前にある円墳上の高まり
小さな石のお地蔵さんさんが安置してあった |
千塚山A古墳
千塚山古墳より北200m・徒歩5分
北緯38度4分4秒,東経140度43分53秒 |
近年周囲は宅地開発されて「千塚」とされる当地は住宅地になっている。
聞けば発掘調査はそこそこに開発されたとのこと、はなはだ残念である。
小さな鳥居の奥に円墳がある。前方墳を思わせるような方形の高まりの畑が観察できる。
千塚山B古墳
千塚山A古墳より東50m・徒歩5分
北緯38度4分4秒,東経140度43分56秒 |
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数年前に観察したときは、杉林の中だったような気がしたが、切り株が残るのみできれいな円墳状の高まりが見える。 |
嶋館古墳
宮城県柴田郡大河原町千塚前嶋館神社裏山・千塚山古墳より東300m・徒歩10分
北緯38度3分58秒,東経140度44分5秒 |
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嶋館神社社殿北奥隣接の丘に、北西に向いた主軸長35mの前方後円墳。形から中期と考えられている。
標高16m、周囲の水田からの比高0m、墳長35m、後円径20m・高5m・頂径約10m、前方幅16m・長15m・高3m、後前高差-1m、葺石なし。
円墳の真上には大きな社殿が建ち右も左も後ろも住宅地が迫っているので、形がかなり変形しているが、確認しやすい古墳の一つである。 |
後円墳から前方墳を見た所
円墳大きな社殿が建っているは |
古墳を南東の横から見た所。
右が方墳で左が円墳。 |
伊勢神社(古墳らしき所)
嶋館神社より北600m・車移動5分
北緯38度4分17秒,東経140度44分9秒 |
宮城県の遺跡地図には載っていないが前方後円墳に見える。
主軸長約70mほどか?南東を向いている。
円墳と思える高台に木造の社殿が建っている。
円墳と思えるところと方墳と思える所はかなり整地したらしく、ほぼ平らな平地となっている。
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