古代安倍一族に関係する古墳か


東北随一の数を誇る円墳郡


幻の霊感寺を関場鏡から探る

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韮神山の地名を考える
藤原国衡 阿津賀志山から大高宮・馬取田まで  

文治五年(1189)八月十日藤原国衡は、阿津賀志山大木戸で惨敗し,「貝田宿」「越河宿」「馬牛沼」「斎川宿」「白石(刈田)宿」「宮宿」「馬取田」まで逃げ、ここで首をとられたとある。

翌十一日「舟迫宿」で藤原国衡の首実検がされたとある。


北から見た阿津賀志山 中央が「大木戸」(自説阿津賀志山「大木戸」)



 文治五年(1189)八月十日藤原国衡は、阿津賀志山大木戸で惨敗し、一路北に向けて敗走する事になる。東鏡では川崎町から山形に抜け、平泉に向かおうとしたとなっているが、平泉軍の総大将藤原泰衡が仙台の駅東「榴ヶ岡」に本陣を構えていることから、疑問が残る。

 普通に考えられるのは、東山道を「泰衡がいる本陣」に向かったのではないか、またはその途中にある部下の照井太郎が陣を構える「千塚山」「韮神山」「関場霊感寺」に向かったのではないかと考えられる。


 そのルートは想像だが、奥州街道(東山道もやや重複している)を基準とするならば、「貝田宿」「越河宿」「馬牛沼」「斎川宿」「白石(刈田)宿」「宮宿」「馬取田」ここで国衡は首をとられ、「舟迫宿」で源頼朝による首実検が行われたとある。


阿津賀志山の戦い

東鏡原文文治五年(1189)八月大七日甲午。二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。泰衡日來聞二品發向給事。於阿津賀志山。築城壁固要害。國見宿与彼山之中間。俄搆口五丈堀。堰入逢隈河流柵。以異母兄西木戸太郎國衡爲大將軍。差副金剛別當秀綱。其子下須房太郎秀方已下二万騎軍兵。凡山内三十里之間。健士充滿。加之於苅田郡。又搆城郭。名取廣瀬兩河引大繩柵。泰衡者陣于國分原。鞭楯。亦栗原。三迫。黒岩口。一野邊。以若九郎大夫。余平六已下郎從爲大將軍。差置數千勇士。又遣田河太郎行文。秋田三郎致文。警固出羽國云々。入夜。明曉可攻撃泰衡先陣之由。二品内々被仰合于老軍等。仍重忠召所相具之疋夫八十人。以用意鋤鍬。令運土石。塞件堀。敢不可有人馬之煩。思慮已通神歟。小山七郎朝光退御寢所邊。〔依爲近習祗候。〕相具兄朝政之郎從等。到于阿津賀志山。依懸意於先登也。

読み下し文(二品陸奥の国伊達郡阿津賀志山の辺国見の駅に着御す。而るに半更に及び雷鳴す。御 旅館霹靂有り。上下恐怖の思いを成すと。泰衡日来二品発向し給う事を聞き、阿津賀 志山に於いて城壁を築き要害を固む。国見の宿と彼の山との中間に、俄に口五丈の堀 を構え、逢隈河の流れを堰入れ柵す。異母兄西木戸の太郎国衡を以て大将軍と為し、 金剛別当秀綱・その子下須房太郎秀方已下二万騎の軍兵を差し副ゆ。凡そ山内三里の 間、健士充満す。しかのみならず苅田郡に於いてまた城郭を構え、名取・廣瀬両河に 大縄を引き柵す。泰衡は国分原・鞭楯に陣す。また栗原・三迫・黒岩口・一野辺は、 若九郎大夫・余平六已下の郎従を以て大将軍と為し、数千の勇士を差し置く。また田 河の太郎行文・秋田の三郎致文を遣わし、出羽の国を警固すと。夜に入り、明暁泰衡 の先陣を攻撃すべきの由、二品内々老軍等に仰せ合わさる。仍って重忠相具する所の 疋夫八十人を召し、用意の鋤鍬を以て土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢えて人馬の 煩い有るべからず。思慮すでに神に通ずか。小山の七郎朝光御寝所の辺(近習たるに 依って祇候す)を退き、兄朝政の郎従等を相具し、阿津賀志山に到る。意を先登に懸 けるに依ってなり。 )

文治五年(1189)八月八日、奥州藤原氏の軍勢(約二万余騎)と源頼朝の軍勢(二十八万四千余騎ー三方向総計で)が、ここ阿津賀志山防塁を挟んで激戦を繰り広げた。

源頼朝軍は国見宿(福島県国見町藤田)の現在「源宗山」として名前が残る丘に本陣を置いたという。

一方、奥州藤原軍は四代当主藤原泰衡の異母兄西木戸国衡を守将として阿津賀志山防塁の北方大木戸付近に本陣を置き、阿津賀志山防塁には金剛別当秀綱を配した。
総大将藤原泰衡自身は後方の国分原鞭楯(宮城県仙台市榴岡)に陣を構えたという。

東鏡原文文治五年(1189)八月大八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司。〔又号湯庄司。是繼信忠信等父也。〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潜相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之号。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。

八月八日阿津賀志山を守っていた平泉方の金剛別当季綱らは防ぎ戦いますが、頼りにしていた堀が前の晩に埋められていては押し寄せる大軍の前に抗すべくもありませんでした。
ついに、畠山次郎重忠らの猛攻に堪えられなくなって退却します。これによって、国衡が頼りにしていた要害の一画が崩れ、平泉勢は阿津賀志山の城を明け渡して、国衡の陣に退却しました。


東鏡原文文治五年(1189)八月大九日丙申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戰之由被定之。爰三浦平六義村。葛西三郎C重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤澤次郎C近。河村千鶴丸。〔年十三才。〕以上七騎。潜馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。与大軍同時難凌嶮岨之故也。于時重忠郎從成C伺得此事。諌主人云。今度合戰奉先陣。抜群眉目也。而見傍輩所爭。難温座歟。早可塞彼前途。不然者。訴申事由。停止濫吹。可被越此山云々。重忠云。其事不可然。縱以他人之力雖退敵。已奉先陣之上者。重忠之不向以前合戰者。皆可爲重忠一身之勳功。且欲進先登之輩事。妨申之條。非武略本意。且獨似願抽賞。只作惘然。神妙之儀也云々。七騎終夜越峯嶺。遂馳着木戸口。各名謁之處。泰衡郎從部伴藤八已下強兵攻戰。此間。工藤小次郎行光先登。狩野工藤五郎損命。伴藤八者。六郡第一強力者也。行光相戰。兩人並轡取合。暫雖爭死生。遂爲行光被誅。行光取彼頚付鳥付。差木戸登之處。勇士二騎離馬取合。行光見之。廻轡問其名字。藤澤次郎C近欲取敵之由稱之。仍落合。相共誅滅件敵之。兩人安駕。休息之間。C近感行光合力之餘。以彼息男可爲聟之由。成楚忽契約云々。次C重并千鶴丸等。撃獲數輩敵。亦親能猶子左近將監能直者。當時爲殊近仕。常候御座右。而親能兼日招宮六兼仗國平。談云。今度能直赴戰塲之初也。汝加扶持。可令戰者。仍國平固守其約。去夜。潜推參二品御寢所邊。喚出能直。〔上臥也。〕相具之。越阿津賀志山。攻戰之間。討取佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等。〕畢。此宮六者。長井齊藤別當實盛外甥也。實盛属平家。滅亡之後。爲囚人。始被召預于上総權介廣常。々々誅戮之後。又被預親能。而依有勇敢之譽。親能申子細。令付能直云々。

読み下し文(夜に入り、明旦阿津賀志山を越え、合戦を遂ぐべきの由これを定めらる。爰に三浦の 平六義村・葛西の三郎清重・工藤の小次郎行光・同三郎祐光・狩野の五郎親光・藤澤 の次郎清近、河村千鶴丸(年十三歳)以上七騎、潛かに畠山の次郎の陣を馳せ過ぎ、 この山を越え先登に進まんと欲す。これ天曙の後、大軍と同時に険阻を凌ぎ難きが故 なり。時に重忠郎従成清この事を伺い得て、主人に諫めて云く、今度の合戦に先陣を 奉ること、抜群の眉目なり。而るに傍輩の争う所を見るに、温座し難からんか。早く 彼の前途を塞ぐべし。然らずんば事の由を訴え申し、濫吹を停止し、この山を越えら るべしと。重忠云く、その事然るべからず。縦え他人の力を以て敵を退けると雖も、 すでに先陣を奉るの上は、重忠の向かわざる以前に合戦するは、皆重忠一身の勲功た るべし。且つは先登に進まんと欲するの輩の事妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且 つは独り抽賞を願うに似たり。ただ惘然を作すこと、神妙の儀なりと。七騎終夜峰嶺 を越え、遂に木戸口に馳せ着く。各々名謁るの処、泰衡郎従部伴の籐八已下の強兵攻 戦す。この間工藤の小次郎行光先登す。狩野の五郎命を殞す。部伴の籐八は六郡第一 の強力者なり。行光相戦う。両人轡を並べ取り合い、暫く死生を争うと雖も、遂に行 光の為誅せらる。行光彼の頸を取り鳥付に付け、木戸を差し登るの処、勇士二騎馬に 離れ取り合う。行光これを見て、轡を廻らしその名字を問う。藤澤の次郎清近敵を取 らんと欲するの由これを称す。仍って落ち合い、相共に件の敵を誅滅するの後、両人 駕を安じ休息するの間、清近行光の合力に感ずるの余り、彼の息男を以て聟と為すべ きの由、楚忽の契約を成すと。次いで清重並びに千鶴丸等、数輩の敵を撃ち獲る。ま た親能猶子左近将監能直は、当時殊なる近仕として、常に御座右に候す。而るに親能 兼日に宮六兼仗国平を招き、談りて云く、今度能直戦場に赴くの初めなり。汝扶持を 加え合戦すべしてえり。仍って国平固くその約を守り、去る夜潛かに二品の御寝所の 辺に推参し、能直(上に臥すなり)を喚び出す。これを相具し阿津賀志山を越え、攻 戦するの間、佐藤の三郎秀員父子(国衡近親の郎等)を討ち取りをはんぬ。この宮六 は長井齋藤別当實盛の外甥なり。實盛平家に属き、滅亡の後囚人として、始め上総権 の介廣常に召し預けらる。廣常誅戮の後、また親能に預けらる。而るに勇敢の誉れ有 るに依って、親能子細を申し、能直に付けしむと。 )

東鏡原文文治五年(1189)八月大十日丁酉。夘剋。二品已越阿津賀志山給。大軍攻近于木戸口。建戈傳箭。然而國衡輙難敗傾。重忠。朝政。朝光。義盛。行平。成廣。義澄。義連。景廉。C重等。振武威弃身命。其鬪戰之聲。響山谷。動郷村。爰去夜小山七郎朝光。并宇都宮左衛門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。以安藤次爲山案内者。面々負甲疋馬。密々出御旅舘。自伊逹郡藤田宿。向會津之方。越于土湯之嵩。鳥取越等。樊登于大木戸上。國衡後陣之山。發時聲飛箭。此間。城中大騒動。稱搦手襲來由。國平已下邊將。無益于搆塞。失力于廻謀。忽以逃亡。于時雖天曙。被霧隔。秋山影暗。朝路跡滑。不分兩方之間。國衡郎從等。漏網之魚類多之。其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黒駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。又小山七郎朝光討金剛別當。其後退散武兵等。馳向于泰衡陣。阿津賀志山陣大敗之由告之。泰衡周章失度。逃亡赴奥方。

読み下し文8月10日 丁酉 卯の刻、二品すでに阿津賀志山を越え給う。大軍木戸口に攻め近づき、戈を建て箭を 伝う。然れども国衡輙く敗傾し難し。重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・  義連・景廉・清重等、武威を振るい身命を棄つ。その闘戦の声山野を響かせ郷村を動 かす。爰に去る夜小山の七郎朝光並びに宇都宮左衛門の尉朝綱郎従紀権の守・波賀の 次郎大夫已下七人、安籐次を以て山の案内者と為し、面々に甲を疋馬に負わせ、密々 に御旅館を出て、伊達郡藤田の宿より会津の方に向かう。土湯の嵩・鳥取越等を越え、 大木戸の上国衡後陣の山に攀じ登り、時の声を発し箭を飛ばす。この間城中太だ騒動 し、搦手に襲来する由を称す。国衡已下の辺将、構え塞ぐに益無く、謀りを廻らすに 力を失い、忽ちに以て逃亡す。時に天晴曙と雖も、霧に隔てらる。秋山の影暗く・朝 路の跡滑かにて、両方を分けざるの間、国衡郎従等、網を漏れるの魚類これ多し。そ の中金剛別当の子息下須房の太郎秀方(年十三)残留し防戦す。黒駮馬額白髦に駕し 陣す。その気色掲焉なり。工藤の小次郎行光馳せ並べんと欲するの刻、行光郎従籐五 男相隔てて秀方に取り合う。この間顔面を見るに、幼稚の者なり。姓名を問うと雖も、 敢えて詞を発せず。然れども一人留まるの條、子細有りと称し、これを誅しをはんぬ。 強力の甚だしきこと若少に似ず。相争うの処、対揚良久しと。また小山の七郎朝光金 剛別当を討つ。その後退散の歩兵等、泰衡の陣に馳せ向かう。阿津賀志山の陣大敗す るの由これを告ぐ。泰衡周章度を失い、逃亡し奥方に赴く。

八月十日頼朝は阿津賀志山を越えて攻撃しますが、国衡勢は抵抗を続けてなかなか勝負がつきませんでした。ところが安藤次を山の案内者として小山七郎朝光らは背後に回って鬨の声をあげます。
城兵は後が破られて攻撃されたと思って浮き足立ってしまいます。平泉方は総崩れになって、落ちていきました。
鎌倉方の奇襲作戦がみごとに奏功しました。



阿津賀志山山頂から南を望む 源頼朝本陣跡が見える

阿津賀志山山頂から東を望む 約4kmの防塁が阿武隈川まで続く


阿津賀志山山頂の説明看板

阿津賀志山山頂の碑
阿津賀志山山頂の古碑郡




源頼朝の本陣跡源宋山(藤田城跡) −右のこんもりとしたところー
左遠方に阿津賀志山がある

源頼朝の本陣跡源宋山 この高台からは北遠方に、阿津賀志山を望むことが出来る。



旧奥州道中国見峠長坂跡

 この峠一帯の地は、文治5年の奥州合戦で源頼朝と藤原康衡の率いる両軍が激戦を交えた古戦場であり、信夫郡石那坂の戦いで戦死した泰衡の郎従佐藤基治等一族の首級は径ヶ岡の地にさらされた。


佐藤基治等一族の首がさらされた経ヶ岡


国見峠長坂跡地にある古碑郡

芭蕉の句碑もある。


秋の長坂峠 何回目の冬を迎えるのであろうか



激戦の地阿津賀志山防塁

阿津賀志山の麓は、古代の東山道、中世の奥の大道、近世の奥州街道が通る交通の要地であったが、今でも東北本線、東北自動車道、国道4号線が通り交通の要地であることには変わりがない。

阿津賀志山防塁は阿武隈川の支流滑川に沿うように築かれていて、発掘調査により、幅11.2〜13m、深さ1〜3mの二重堀とそれと平行する三重の土塁からなる構造であったことがわかっている。


緑の線が阿津賀志山防塁 山頂から阿武隈川まで約4km続く  2008年発掘調査結果はこちら


阿津賀志山防塁での戦いの様子


阿津賀志山防塁始点表示板

阿津賀志山防塁始点

阿津賀志山防塁中腹地点

阿津賀志山防塁終点付近


阿津賀志山防塁に人知れず咲いていた野草 ここで大勢の命が失われたとは・・・



貝田宿

 阿津賀志山大木戸で惨敗した藤原国衡は北に隣接する「貝田宿」を駆け抜けたことだろう。

 貝田宿は江戸時代の元禄11年(1699)に描かれた奥州道中貝田宿復元図によると、風呂沢川をはさんで長さ4町(400m)、道巾4間(7m)、戸数は60戸ほどあったが、たびたびの大火で当時の町並みは、消失してしまった。
 そのため、現在の旧貝田宿の町並みは、旧家はほとんどなくなってしまっているが、阿津賀志山の山すその坂道の両側に続くひなびた町並みは、旧宿場街の雰囲気を今に伝えている。


阿津賀志山山頂より北貝田宿を望む

国道旧4号線であるが、平行してバイパスができ、車の往来がなくなった。


宿場町の面影がある唯一の場所

左奥にある番所跡、面影は今はない。



越河宿

 阿津賀志山大木戸から北へ約5km、宮城県との県境を越えてすぐの宿場。

越河は、仙台藩領の南端に当り、藩境の警備と往来する人馬、荷駄を監視するため仙台藩から役人(境目足軽)がここに派遣されていた。
 現在の旧越河宿の町並みは、旧家はほとんどなくなってしまっているが、道沿いにはこの地方特有の大屋根を持つ家があり、ひなびた趣のある町並みが続く。


越河宿南入り口

わかり難い案内図


宿南入り口の岡に鎮座する神社

明治天皇が東北巡行のときの記念碑
まだ少し残っている宿場町としての風情。




馬牛沼


夕日に輝く馬牛沼
現在の国道4号線は馬牛沼の東側をほぼ直線的に通りますが、東山道、奥州街道は西側JR東北本線側を通り大きく迂回する難所の道であったと言われている。
斎川宿入り口に「あぶみすり坂」が残っており、現代とは違う道の難所をうかがい知ることが出来る


斎川宿

斎川は、疳の薬として全国に広まった孫太郎虫を産する地として有名であった。孫太郎虫は斎川に生息するヘビトンボの幼虫を乾燥させたもので、かっては斎川の人々が多く携わり、宿場の大きな収入源になっていたという。

現在の旧斎川宿の街並は宿場街であった面影を残すのは、街の中程にある旧検断屋敷ぐらいになってしまったが、山間に続く静かな街並のたたずまいは旧宿場街の雰囲気を感じさせるものがある







あぶみすり坂と言われて険しい道であったため、源義経が鐙を岩で摺ったといわれる鐙摺り石がある。鐙を摺るくらいの奥州街道最大の難所であった。






田村神社 境内に甲冑堂がある
佐藤継信・忠信兄弟の妻の楓と初音が夫の鎧甲をつけて兄弟の母の前でその活躍ぶりを演じて慰めたとされている。


斎川宿町並

検断屋敷跡 荒れ果てていた



白石宿

 宿場街は南から本町、中町、長町、亘理(わたり)町、短ヶ町、新町の六町からなり長さ1.4kmの大きな宿場町であった。商人町にはそれぞれに市神が設けられた。


宿中心部のすまる屋敷は明治に興った豪商(渡辺家)で、地場特産の白石和紙の紙問屋をはじめ太物屋、味噌醤油醸造、不動産業、金融など手広く商っていた白石指折りの経済人であった。現在も仙南信用金庫と蔵王酒造の経営に携わっている。


奥州街道白石宿本町 突き当りがすまる屋敷

すまる屋敷


片倉小十郎の白石城

白石武家屋敷


宮宿


宮宿町並み
宿北はずれにある刈田峰神社は刈田郡総鎮守として、又伊達家の重臣白石城主片倉氏(一万八千石)総守護神として古くから崇敬を受けた名社で、白鳥明神とも称された。往古は大刈田山(青麻山)の頂に鎮座したが、延暦二十年(801)西山の若宮に相殿となり、永正年中(1510頃)現地に遷座された。本殿は享保三年(1718)片倉家の手で、拝殿と随身門は、文政十年(1827)宮の豪商森家の手で建築奉納された。向拝蟇股の脚線、虹梁木鼻の彫刻、同袖部の若葉文、頭貫の絵模様等に力強い美しさがあり、藩政中期の建築様式をも残し、学術上極めて貴重である。


宮宿にある刈田峰神社

威風堂々とした神社である


金ヶ瀬宿




金ヶ瀬宿 面影が少し残っている

新開から移転した現代の大高宮 
雪の中の元朝参り

金ヶ瀬 香林寺

1189年に戦死した照井太郎高直と妻の位牌が奉られていると言う。


馬取田

「吾妻鏡」によると、藤原国衡終焉の地は、柴田群大高宮下の湿田とある

「吾妻鏡 1189年(文治5年)8月10日」より

東鏡原文:國衡亦逐電。二品令追其後給。扈從軍士之中。和田小太郎義盛馳抜于先陣。及昏黒。到于芝田郡大高宮邊。西木戸太郎國衡者。經出羽道。欲越大關山。而今馳過彼宮前路右手田畔。義盛追懸之。稱可返合之由。國衡令名謁。廻駕之間。互相逢于弓手。國衡挟十四束箭。義盛飛十三束箭。其矢。國衡未引弓箭。射融國衡之甲射向袖。中膊之間。國衡者痛疵開退。義盛者又依射殊大將軍。廻思慮搆二箭相開。于時重忠率大軍馳來。隔于義盛國衡之中。重忠門客大串次郎相逢國衡。々々所駕之馬者。奥州第一駿馬。〔九寸。〕号高楯黒也。大肥満國衡駕之。毎日必三ケ度。雖馳登平泉高山。不降汗之馬也。而國衡怖義盛之二箭。驚重忠之大軍。閣道路。打入深田之間。雖加數度鞭。馬敢不能上陸。大串等弥得理。梟首太速也。

・・・二品その後を追わしめ給う。扈従軍士の中、和田の小太郎義盛先陣を馳せ抜け、昏黒に及び、芝田郡大高宮の辺に到る。西木戸の太郎国衡は、出羽道を経て大関山を越えんと欲す。
而るに今彼の宮の前路右手の田畔を馳せ過ぐ。義盛これを追い懸け、返し合わすべき の由を称す。国衡名謁らしめ駕を廻らすの間、互いに弓手に相逢う。国衡十四束の箭 を挟む。義盛十三束の箭を飛ばす。その矢国衡未だ弓を引かざる前、国衡の甲の射向 の袖を射融し腕に中たるの間、国衡は疵の痛みに開き退く。義盛はまた殊なる大将軍 を射るに依って、思慮を廻らし二の箭を構え相開く。時に重忠大軍を率い馳せ来たる。
義盛国衡に隔てるの中、重忠門客大串の次郎国衡に相逢う。国衡の駕す所の馬は、奥州第一の駿馬(九寸)、高楯黒と号すなり。大肥満の国衡これに駕し、毎日必ず三箇 度平泉高山に馳せ登ると雖も、汗を降さざるの馬なり。而るに国衡義盛の二の箭を怖れ、重忠の大軍に驚き、道路を閣き深田に打ち入るの間、数度鞭を加うと雖も、馬敢えて上陸するに能わず。大串等いよいよ理を得て、梟首太だ速やかなり。



また平泉雑記には以下の記述がある

柴田郡福田村ニ國平塚アリ、大高宮ノ西ノ田ノ畔ニアリ、三町餘ヲ隔ツ塚ノ上ニ杉ノ古木アリ、國衡義盛カ矢ニアタリテ大串ニ討レシ處ナリ、同郡平村ニ國衡馬ヲ深田ニ翔込タル處、大高宮ノ北四町餘ヲ隔ツ、山下ノ深田是ヲ馬取沼ト云、今ニ於テ村民是ヲ耕スコトナシ、刈田郡曲(マカ)竹村ニ白(シラ)九頭龍(ツリウ)ノ祠アリ、國衡カ屍ヲ此祠ノ邊ニ座ミ叢祠ヲ建テ祭之、○一説、白崩明神長野ノ邊ニ小山アリ、崩テ白ク見ユル也、此處ニ西城戸太郎國衡カ首ヲ埋テ明神ニ祭ルト云リ、

地元の古老にお尋ねしても、現時点ではその各々の位置関係が良くわからない。
現在大高宮跡といわれてる金ヶ瀬新開台山遺跡(旧平村)の東には田があるが、西には田が無い。柴田郡福田村に国平塚ありとなっているが、国平と国衡は同一人物なのだろうか。
また大高宮と福田村の位置関係が現在の位置とは違っている。など

今後も調べ続けたいと思います。


金ヶ瀬新開地区 馬取田と馬取山全景 馬取山一帯は横穴墳墓が密集している聖地である





杉の茂っている所が当時の大高宮跡
手前がブルーベリー農園

馬取山と南前方にある古碑、遠方北約5キロmにある韮神山

馬取山にある横穴古墳群。この西東に伸びる丘陵には多くの横穴古墳があります。


船迫宿

東鏡原文文治五年(1189)八月大十一日戊戌。今日。二品逗留船迫宿給。於此所。重忠献國衡頚。太蒙御感仰之處。義盛參進御前。申云。國衡中義盛箭亡命之間。非重忠之巧云々。重忠頗笑申云。義盛口状可謂髣髴。令誅之支證何事哉。重忠獲頚。持參之上。無所疑歟云々。義盛重申云。頚事者勿論。但國衡甲者。定被剥取歟。召出彼。可被决實否。其故者。於大高宮前田中。義盛与國衡。互相逢于弓手。義盛之所射箭。中于國衡訖。其箭孔者。甲射向之袖二三枚之程。定在之歟。甲毛者紅也。馬黒毛也云々。因茲。被召出件甲之處。先紅威也。召寄御前覽之。射向袖三枚。聊寄後方。射融之跡掲焉也。殆如通鑿。于時仰曰。對國衡。重忠不發矢乎者。重忠申不發矢之由。其後付是非無御旨。是件箭跡。異他之間。非重忠之箭者。義盛矢之條勿論也。凡義盛申詞。始終符合。敢無一失。但重忠其性稟C潔。以無詐僞爲本意者也。於今度儀者。殊不存奸曲歟。彼時郎從爲先。重忠在後。國衡兼中箭事。一切不知之。只大串持來彼頚。与重忠之間。存討獲之由。不乖物儀歟。

読み下し文(今日、二品船迫の宿に逗留し給う。この所に於いて重忠国衡の頸を献る。太だ御感の 仰せを蒙るの処、義盛御前に参進し、申して云く、国衡は義盛の箭に中たり亡命する の間、重忠の功に非ずと。重忠頗る咲い申して云く、義盛の口状髣髴と謂うべし。誅 せしむの支證何事ぞや。重忠頸を獲て持参するの上は、疑う所無からんかと。義盛重 ねて申して云く、頸の事は勿論なり。但し国衡の甲は、定めて剥ぎ取らるるか。彼の 甲を召し出され実否を決せらるべし。その故は、大高宮の前田の中に於いて、義盛と  国衡と互いに弓手に相逢う。義盛の射る所の箭国衡に中たりをはんぬ。その箭の孔は、 甲の射向の袖二三枚の程、定めてこれ在るか。甲の毛は紅なり。馬は黒毛なりと。茲 に因って、件の甲を召し出さるるの処、先ず紅威なり。御前に召し寄せこれを覧るに、 射向の袖三枚、聊か後方に寄り、射融すの跡掲焉なり。殆ど鑿を通すが如し。時に仰 せに曰く、国衡に対し、重忠矢を発せざるかてえり。重忠矢を発せざるの由を申す。 その後是非に付いて御旨無し。これ件の箭の跡他に異なるの間、重忠の箭に非ず。て えれば、義盛の矢の條勿論か。凡そ義盛の申す詞始終符合し、敢えて一失無し。但し 重忠はその性清潔に稟け、詐偽無きを以て本意と為すものなり。今度の儀に於いては、 殊に奸曲を存ぜざるか。彼の時郎従先を為し、重忠後に在り。国衡兼ねて矢に中たる 事、一切これを知らず。ただ大串彼の頸を持ち来たり、重忠に與うの間、討ち獲るの 由を存ず。物儀に乖かざるか。

船迫宿は奥州街道と東街道の宿と思われる。

下の地図をご覧頂くと解るように、旧白石川跡が大きく北へ蛇行しその北西辺に宿場が発達したようである。

頼朝はこの地のどこかに逗留し国衡の首実検をしたとある。

昔の面影は今はない。


戦後の米軍の航空写真でこの地を観察すると旧川跡がはっきりと解る


宿南入り口にある熊野神社

その南となりにある神宮寺
ここには円墳と横穴墳墓がある


韮神山

関場鏡原文:沼辺村韮神山ハ古戦場ノ地ナリ。泰衡没落時、此地二柵ヲ構へ、鎌倉勢ヲ拒キ防戦ノ地ナリ、迫村迫郷二砦ヲ築キ血戦ノ地ナリ、同山下二、錦戸太郎国衡、照井太郎高直戦死ノ墳墓アリ。高直文治五年此役二於テ戦死。其ノ西方二同人ノ首洗池アリ、又、山陰二千人沢ト云所アリ、泰衡ノ軍勢伏兵ノ地ナリ、山上二八神平卜云所二、戦死ノ塚多クアリ、同村西南二当ツテ、是又、戦死ノ大塚アリ、此所ヲ千塚ト云、今ハ字アリテ千塚屋敷ト云。


韮神山全景 韮神山詳細はこちらをご覧ください


地元で照井太郎の首塚といわれている塚

塚の隣の「延命地蔵尊」 山の上地区
洞秀院焼失後照井夫婦を供養した地蔵堂


新寺洞秀院跡

新寺 洞秀院跡

寺跡の土止めと思われる石垣

新寺集落の墓地入り口にある石像

集落墓地最上部にある照井太郎の墓

正面に3個の石塔が並んでいる
地元では照井太郎とその妻との言い伝えがある

脇にあるかなり小ぶりの石塔
こちらはどんな謂れがあるのか不明


金ヶ瀬香林寺
新寺 洞秀院跡

文治五年(1189年)源頼朝の奥州合戦の際、泰衡軍の総師照井太郎高直は韮神山で戦死、韮神山西方山の上に牌所が立てられたが焼失、仁治元年(1240年)この地に新たに照井の法名をつけた洞秀院(臨済宗)が再建された。
為にこの地を新寺と称すようになった。
文明年中曹洞宗に改宗、小山田に長寿院と言う末寺も建てたが寺運振るわず、天保年中の火災により廃寺となった。

照井太郎の位牌は妻の位牌とともに、金ヶ瀬の香林寺に移管されている。
照井太郎の法名は「洞秀院殿月渓円水大居士」
その妻の法名は「天暁院殿光月了水大姉」

また照井太郎のご子孫は角田笠島に住むという



千塚山

千塚地区にはかつて無数の塚あったと言われている。遺跡を無視した開発で現在はその殆どが失われてしまった。地名のみが今に残っている。

千塚山全景



関場 霊感寺

関場鏡原文:八拾弐代後鳥羽帝文治五年、頼朝公泰衡追討ノ節、奥州ノ寺僧泰衡二一味シ、沼辺村韮神山戦ノ時、霊感寺ヲ以テ兵糧場トナセリ、韮神山戦破レ、大敗然ルニ鎌倉勢破竹之勢ヲ以、当村霊感寺二籠リ居タル兵卒及壱千余ノ寺僧トモヲ取囲ミ防戦スト離モ無勢ニシテ終二減亡二及ビケル痛哉。
美ヲ尽シタル殿堂伽藍モ一時二灰燈トナリ惜哉、慈覚大師ノ御作佛ノ正観世音ノ尊像モ畑田ノ中二埋ツテ有、残兵僧侶モ散々二退転ス、佛具ハ勿論、鐘馨共二散乱シテ一宇モ不残焦土ト成リヌ。宝蔵、大室、塔ヶ崎モ名ノミ残リテ後、荒々ノ地トハナり


坊舎弐拾四坊有リト伝ヘアリ、青山楼経蔵ノ趾アリ、今、経壇ト云フ、学頭田アリ。今、字二学頭ト云フアリ、鐘ツキ田アリ、字鎌倉ニアリ。大室、宝龍、塔ヶ崎杯卜云フ大寺ノ古趾今二至リテ字ノ残レリ。秀衡時代迄ハ大伽藍ノ地ト見へタリ。


関場地区全景 ここに平泉に次ぐ荘厳な寺院(霊感寺)があったと言う 霊感寺はこちら


今に残る地名和田地区

今に残る地名鎌倉地区


関場地区龍泉院に残る霊感寺の絵図


根無籐と四方峠

東鏡原文文治五年(1189)八月十日亦泰衡郎從等。以金十郎。匂當八。赤田次郎。爲大將軍。根無藤邊搆城郭之間。三澤安藤四郎。飯富源太已下猶追奔攻戰。凶徒更無雌伏之氣。弥結烏合之群。於根無藤与四方坂之中間。兩方進退及七ケ度。然金十郎討亡之後皆敗積。匂當八。赤田次郎已下。生虜卅人也。此所合戰無爲者。偏在三澤安藤四郎兵略者也。〕今日於鎌倉。御臺所以御所中女房數輩。有鶴岳百度詣。是奥州追討御祈精也云々。

読み下し文(また泰衡 郎従等、金十郎・勾當八・赤田の次郎を以て大将軍と為し、根無藤の辺に城郭を構う の間、三澤安藤の四郎・飯富の源太已下猶追奔し攻戦す。凶徒更に雌伏の気無し。い よいよ烏合の群を結ぶ。根無藤と四方坂の中間に於いて、両方の進退七箇度に及ぶ。
然るに以て金十郎討亡の後皆敗績す。勾當八・赤田の次郎已下生虜三十人なり。この 所の合戦無為なるは、偏に三澤安藤の四郎の兵略に在るものなり。)



整備された羽前街道入り口




峠付近の羽前街道


四方峠の古碑郡

四方峠古戦場跡

藤原国衡終焉の地は東鏡とは別に、根無籐北東の平沢地区の熊野神社の前の湿田であったと地元では伝わっている。またそれは身代わりの部下で、本人は約4km南の曲竹地区の逃げ屋敷で絶命しているとの伝承がある。