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2008年10月31日河北新報によると
郡庁東に「館」3棟 亘理・三十三間堂官衙遺跡
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「館」の中心となる建物跡
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宮城県亘理町教委は30日、同町逢隈下郡で調査している陸奥国亘理郡の郡役所跡「三十三間堂官衙(かんが)遺跡」の本年度分の調査結果を発表した。これまでに確認された平安時代前半の中心施設「郡庁」から東に延びる通路を挟み、南北に5つの建物跡が見つかった。11月1日午後1時半から現地説明会が開かれる。
今回調査したのは、郡庁の東側1500平方メートル。通路の南側には、南北9メートル、東西3.6メートルの建物跡など、3棟の掘っ立て柱建物跡が確認された。3棟のうち中心となる建物は4度目の建て替えの際に、掘っ立て柱建物から礎石建物の構造となった。
3棟は近接し、建物を囲む板塀跡も見つかったことなどから「館(たち)」と呼ばれる宿泊施設だったと考えられる。
通路の北側からは、2棟の掘っ立て柱建物跡が見つかったが、建て替えはなく、南側に比べ存続期間は短いと見られる。
同遺跡ではこれまで、郡庁や倉庫跡が見つかっている。新たに館が見つかり、町教委は「全体像がここまで明確になった郡衙遺跡は全国でも10カ所ほどしかない。貴重な成果が得られた」と話している。
当遺跡はJR常磐線逢隈駅の西側、標高約20m〜40mの給料東斜面に位置し、遺跡の範囲は東西約500m、南北約750m(約25ha)です。遺跡は丘陵東側から入り込む沢によって大きく北地区と南地区に分けられます。
昭和61〜63年に宮城県教育委員会が調査した結果、三十三間堂遺跡は平安時代前半(9〜10世紀前半)の陸奥国亘理郡衙後であることが分かりました。北地区は郡庁院と3ヶ所以上の官衙ブロックからなる実務官衙域、南地区は溝で一辺約150mの方形の区画し礎石建ちの倉庫10棟と掘っ立て柱建物が計画的に配置された倉庫院である事が明らかになりました。
平成19年度までに実施した調査結果、郡庁院は南北約65m×東西約50mの範囲を板塀で区画されており、南門(八脚門)と東門(四脚門)があったこと、郡庁院を構成する主要な建物は、正殿、西脇殿、北辺の塀にに取り付く建物、北東・北西隅建物であることが分かりました。
また郡庁院は3〜4時期の変遷があることを確認し、北東・北西隅の建物や塀を中心に2時期目に火災にあっていることも分かりました。
南地区の倉庫院は、中央に広場があり、南辺・西辺・北辺に沿って礎石倉庫が配置されています。遺跡の年代は9世紀前半ごろから10世紀前半の平安時代前半と考えられます。
北から見た南地区郡庁院の発掘調査 |