ブルーベリー園は藤原国衡の終焉の地だった



藤原国衡 阿津賀志山から馬取田まで


古代安倍一族の古墳だろうか

東北随一の数を誇る円墳郡


幻の霊感寺を関場鏡から探る


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韮神山の地名を考える

阿津賀志山防塁考察ノート

 地元宮城県大河原町金ヶ瀬地区馬取田で戦死した藤原国衡を調べていたら、どうしても福島県国見町の国の史跡「阿津賀志山防塁」にたどり着く。

 ここで国衡を総大将とする平泉藤原軍と源頼朝の鎌倉の大軍が1189年8月8日未明に激突することとなる。この文治5年の役は「吾妻鏡」に詳しく書かれているので、調べれば簡単に分かるだろうと高をくくっていた。

 しかし調べれば調べるほど、分からないことが多くあると言うことが分かってきた。今分かっていることは「阿津賀志山防塁」だけで、国衡の本陣である「大木戸」、伊達家の祖である常陸入道念西が佐藤庄司と戦ったとされる「石那坂」はなど未だに不明で、各論あるようである。宮城県民としては気になって仕方が無い。

 また現在発表されている「阿津賀志山防塁」も個人的には「防塁」としては不完全な防塁と考えている。この防塁は発掘調査のデータが詳しく発表されており、防塁の断面図も現地に掲示されている。
 どこに疑問を持ったかと言うと、掲示されている断面図によると西(鎌倉軍)から「土塁・溝・土塁・溝・土塁」となっている。本来の軍事施設であれば、西(鎌倉軍)から「溝・土塁・・・・・」となるはずであるが、発掘調査結果はそうはなっていない(考察結果は後で述べることとする)。


以下はそれらの疑問点を素人なりに調べたものである。

大木戸はどこにあるのか

阿津賀志山防塁は二重掘なのか三重掘なのか

石那坂は福島盆地南部でよいのだろうか

第2・第3・第4防塁とは



藤原國衡の本陣「大木戸」はどこなのか


 国見町資料(国見町史跡・文化財マップ)によると「大木戸跡」は、阿津賀志山防塁より北東約2km国道4号線現交番交差点から北東200mの畑付近とされている。

 その根拠はよく分かりかねるが、ここに阿津賀志山第二防塁と言われている石積防塁が東街道を塞ぐように、北西〜南東に約1kmに渡り存在しているからと推測する。

 しかしこの第2防塁と言われている石積防塁が果たして同時代の防塁なのか、まだ推測の域を脱していない。個人的推測としては、この地を「大木戸跡」と断言するには疑問が多い。

 ところがこの第二防塁を調べていて、石積防塁の立派さと防塁としての可能性の大きさにとても感動したことが強く印象に残った。詳しくは後で述べることとする。



 「吾妻鏡」を何度か読み返している内に、常陸入道念西が佐藤庄司一族の首を8月8日に「経ヶ丘」にさらしたと言う一文が気になった。この件に関して各論あることは承知の上で、素人の特権で素直に吾妻鏡の内容に従うことにした。

「吾妻鏡」8月8日の記述原文
文治五年(1189)八月大八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司。〔又号湯庄司。是繼信忠信等父也。〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潜相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之号。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。

 この日は本格的な戦闘が早朝に開始し、堅牢な大木戸の前で頼朝軍が攻め倦んでいる(8月10日まで)、まさにその時である。国衡軍の重鎮の佐藤一族の首をさらす最大の目的は、大木戸に立てこもる藤原軍の「戦意喪失・意気喪陳」では無いだろうか。

 とするならば首をさらしたと言われている「経ヶ丘」の目の前が「大木戸」でなければならないと言うことに気づいた。



さてここに本当に「大木戸跡」の痕跡があるのだろうか。

写真A
経ヶ丘とほぼ隣接する土塁らしき痕跡、表面観察だが溝とセットのような気がする。

この地点の発掘調査はまだなされてないとのこと、私が生きている間に発掘調査されないだろうか。


この土塁らしき痕跡は南東の国道4号線に向かって約150m観察できる。
その先は国道で寸断されているが、1948年米軍の航空写真で観察すると、150m先でほぼ直角に南に折れて約200mの溝と土塁の影らしき跡が観察できる。

下の写真は1948年の米軍航空写真で溝と土塁らしき影が観察されたところ、南北に約200m続いていた。

写真B−1

写真B−2


写真C地点は「要害にふさわしい地形は存在しないか」と思い、地図を頼りに写真B地点南端の周辺を探し回ったところ、ほぼここではないかとの確証に至った。
地域に住んでいる方には「不審者」と思われたかもしれない。


写真C−1
旧国道から観察できる約3mの段落斜面、写真B−2の南端からほぼ直角に東に伸びている。

写真C−2
写真C−1の延長線上約60m東の地点。段落斜面が約6m、中央に後時代の用水路がある。


写真C−3
写真C−2から東へ約50mの地点、段落斜面が約10mとこのC地点地域最大の谷を南に有するところ。写真左奥には約4mの垂直段落も見える。

写真C−4
写真C−3地点より東へ約100mの地点、南側に後時代の用水沼がある。段落斜面は水面まで約6m程、沼が無い時代には約8m程以上の段落斜面と考えられる。


写真C−5
写真C−4とはほぼ同位置だが、西を向いて写している。南(写真左)に後時代と思われる用水沼、段落斜面は約8m程と考えられる。

写真C−6
写真C−5より東へ約10mの地点、西を向いて写している。この地点の段落斜面は5〜6m程、C地区の谷の始まり付近に当たる。


写真D
写真C−6地点より東北に町道を挟んでで隣接している用水沼。水面までの段落斜面は4〜5m程、湖底からだとどのぐらいの段落があるのだろうか。

後ろ左に阿津賀志山山頂見える。                          



写真E−1
写真Dの用水沼端の延長線(東北)上約100m、国見神社裏手(西)に見える小さな谷川と約5mほどの段落斜面。このあたりはそれほど深い谷ではないようだ。

写真E−2
写真Eー1と北接している用水溜沼。水面までの段落斜面が5〜6mほど見える。湖底からだとどれほどの段落になっているのだろうか。推測だが深いところで10mほどの谷になっているのではないだろうか。

写真E−3                          
写真Eー2の北にほぼ隣接している用水溜沼。この南の谷底で観察すると10mを超えるような谷になっている。

要害としては真にふさわしい地形と感じた。
またこの溜沼の北にもう一つの溜沼もあり、この一帯は地形的に防御上最適の地ではないかと感じた。 
                      

 個人的調査結果で分かってきたことは、この地は「要害の地」として真にふさわしい自然条件を満たしていると言うことである。
 しかしこの地がどの時代にどのように使われたかは、素人には全く分からない。本格的な発掘調査を待たなくてはこの地が「大木戸」であるかどうかは不明である。

何とか生きている間に発掘調査の実施や優れた歴史研究者が現れないだろうか。




2008年の阿津賀志山防塁発掘調査新聞記事によると

 国見町教育委員会が2008年9月から行っていた同町の「阿津賀志山防塁」の発掘調査で、防塁に出入り口とみられる切れ目が11日までに見つかった。切れ目が見つかった付近は平安から鎌倉時代に移る時代の転換点となった「奥州合戦」の主戦場と考えられ、同町教委では歴史的価値が高い発見としている。

 切れ目が発見されたのは国見町森山字西国見の発掘現場。幅は約4メートルで、人が3、4人通れる広さ。奥州合戦当時の様子を記録した鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」では、出入り口を「大木戸」と呼び、周辺で激しい戦いを繰り広げたことを示す記述がある。防塁の草刈りや外堀の調査を行い、同町教委は切れ目が初めから出入り口として作られたことを証明できたという。


とある。
この記事では「大木戸」が阿津賀志山防塁の切れ目部分であるかのような内容になっている。

果たしてそれでよいのだろうか。