藤原国衡 阿津賀志山から馬取田まで


古代安倍一族に関係する古墳か


東北随一の数を誇る円墳郡


幻の霊感寺を関場鏡から探る

ギャラリー
はし休めにどうぞ


韮神山の地名を考える

藤原国衡終焉の地はブルーベリー農園?


「吾妻鏡」によると、藤原国衡終焉の地は、柴田群大高宮下の湿田とある


「吾妻鏡 1189年(文治5年)8月10日」より

・・・二品その後を追わしめ給う。扈従軍士の中、和田の小太郎義盛先陣を馳せ抜け、昏黒に及び、芝田郡大高宮の辺に到る。西木戸の太郎国衡は、出羽道を経て大関山を越えんと欲す。
而るに今彼の宮の前路右手の田畔を馳せ過ぐ。義盛これを追い懸け、返し合わすべき の由を称す。国衡名謁らしめ駕を廻らすの間、互いに弓手に相逢う。国衡十四束の箭 を挟む。義盛十三束の箭を飛ばす。その矢国衡未だ弓を引かざる前、国衡の甲の射向 の袖を射融し腕に中たるの間、国衡は疵の痛みに開き退く。義盛はまた殊なる大将軍 を射るに依って、思慮を廻らし二の箭を構え相開く。時に重忠大軍を率い馳せ来たる。
義盛国衡に隔てるの中、重忠門客大串の次郎国衡に相逢う。国衡の駕す所の馬は、奥州第一の駿馬(九寸)、高楯黒と号すなり。大肥満の国衡これに駕し、毎日必ず三箇 度平泉高山に馳せ登ると雖も、汗を降さざるの馬なり。而るに国衡義盛の二の箭を怖れ、重忠の大軍に驚き、道路を閣き深田に打ち入るの間、数度鞭を加うと雖も、馬敢えて上陸するに能わず。大串等いよいよ理を得て、梟首太だ速やかなり。また泰衡郎従等、金十郎・勾當八・赤田の次郎を以て大将軍と為し、根無藤の辺に城郭を構うの間、三澤安藤の四郎・飯富の源太已下猶追奔し攻戦す。凶徒更に雌伏の気無し。いよいよ烏合の群を結ぶ。根無藤と四方坂の中間に於いて、両方の進退七箇度に及ぶ。然るに以て金十郎討亡の後皆敗績す。勾當八・赤田の次郎已下生虜三十人なり。・・・



<藤原国衡メモ>

1189年9月21日文治5年8月10日は、鎌倉時代の武将。父は奥州藤原氏3代藤原秀衡で長男、母は蝦夷の娘であったとも言われる側室。異母弟に藤原泰衡、藤原忠衡ほか。妻は藤原秀衡の後妻。西木戸殿西木戸太郎とも。

長男であったが、庶子であったために後継者からは除外される。1187年、鎌倉の源頼朝から追われた源義経が平泉へ落ち延びると、父の遺命に従って忠衡とともに義経を保護し、鎌倉との対決を主張。義経追討の院宣が下ると、4代泰衡は衣川の屋敷を襲撃し、忠衡も滅ぼされる。

1189年8月、頼朝は義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏に対して征伐軍を派遣し、国衡は泰衡から大将軍に任命され、伊達郡阿津賀志山(現・厚樫山)で防戦。阿津賀志山の戦いでは寡兵ながら三日間にわたって抗戦するが、幕府御家人の和田義盛の矢で射られて深田に倒れ、畠山重忠の家臣大串次郎に討ち取られた。



下の写真は1189年当時の大高宮跡地(こんもりとした林の辺り)

その下の元田んぼがブルーベリー農園

田んぼをはさんだ北側が馬取り山、隣接の田んぼが馬取り田
国衡伝説の地名が今に残っています。




現在の大高山神社

古い資料は火災ですべて焼失


南へ約2km移動して現在地にあります

白石川と国道4号に隣接し

「金ヶ瀬」の地名の元になった赤い地層のある丘にあります


神社が鎮座している丘の名は神山(かむやま)
以前からあった名か、大高山神社が引越してから付いたか不明

地形的背景から想像すると以前からあった名のような気がする

この近辺は宮城県の遺跡地図では空白であり
発掘がなされていない事になっていいるが
その事がかえってなぞを深めている




こんもりとした丘が馬取り山

丘中腹からは古墳後期の横穴墳墓が数基発掘


国衡はこの地をただ通り過ぎようとしたのではなく、
ここに何らかの施設(軍事施設)があり、そこを目指したのではないだろうか

また北北東2km千塚山での戦闘
北東3km韮神山での戦闘
北6km関場霊感寺での激しい戦闘
いずれも吾妻鏡には記載無いが地元では伝承している


南東300mの田んぼの中に「大橋」の地名が気になっている
忘れ去られた歴史が田んぼの中に眠っているかもしれない



源頼朝本陣はその日のうちに隣町、船岡町舟迫宿に一泊する
ここで国衡の首実検がされたとある

ここに隣接する丘がまた大変興味のある丘なのです(上野山)
丘の南方全体に東北最大の数を誇る古墳(円墳)があります
その数約360基以上、まだ未発見の古墳があるようです




吾妻鏡では以上のような記述なのですが
地元古文書によると、上野山最南端の韮神山
この地より北東6kmの関場地区でも
壮絶な戦いのあった事が記されている(関場鏡)
千塚山、韮神山の藤原方の総大将は照井太郎高直といわれている

照井太郎の墓はこの地より南西3kmの新寺地区にある。

また平泉藤原と霊感寺(関場地区)との強い関係も読み取れる



北に10kmの柴田町との町境でも
同じような激しい戦闘があったと記されている


また「関場鏡」には別の説もあります。
馬取田で討ち取られた首は藤原国衡の家臣で、
本人は深手を負って落ち延び、隣の刈田郡曲竹村の民家で
死んだそうです。その民家を逃げ屋敷というと書いてあります。